な事があります物か、力業をする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、氣合ひでも惡うござんすか、夫れとも酷く疲れてかと問ふ、いや何處も何とも無いやうなれど唯たべる氣にならぬといふに、妻は悲しさうな眼をしてお前さん又例のが起りましたらう、夫は菊の井の鉢肴《はちざかな》は甘《うま》くもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した處が何となりまする、先は賣物買物お金さへ出來たら昔しのやうに可愛がつても呉れませう、表を通つて見ても知れる、白粉つけて美《い》い衣類《きもの》きて迷ふて來る人を誰れかれなしに丸めるが彼の人達が商賣、あゝ我《お》れが貧乏に成つたから構いつけて呉れぬなと思へば何の事なく濟ましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つてお出なさらう、二葉やのお角に心から落込んで、かけ先を殘らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎が盆筵の端についたが身の詰り、次第に惡るい事が染みて終ひには土藏やぶりまでしたさうな、當時《いま》男は監獄入りしてもつそう[#「もつそう」に傍点]飯たべて居やうけれど、相手のお角は平氣なもの、おもしろ可笑しく世を渡るに咎める人なく美事繁昌して居まする、あれを思ふに商賣人の一徳、だまされたは此方の罪、考へたとて始まる事ではござんせぬ、夫よりは氣を取直して稼業に精を出して少しの元手も拵へるやうに心がけて下され、お前に弱られては私も此子も何うする事もならで、夫こそ路頭に迷はねばなりませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出來ようなら、お力はおろか小紫でも揚卷でも別莊こしらへて圍ふたら宜うござりましよう、最うそんな考へ事は止めにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰氣らしう沈んで仕舞ましたといふに、みれば茶椀と箸を其處に置いて父と母との顏をば見くらべて何とは知らず氣になる樣子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうな狸の忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめと叱りつけて、いや我れだとて其樣に何時までも馬鹿では居ぬ、お力などゝ名計《なばかり》もいつて呉れるな、いはれると以前の不出來しを考へ出していよ/\顏があげられぬ、何の此身になつて今更何をおもふものか、飯がくへぬとてもそれは身體の加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつて呉れとて、ころりと横になつて胸のあたりをはた/\と打あふぐ、蚊遣《かやり》の烟にむせばぬまでも思ひにもえて身の熱げなり。
五
誰れ白鬼とは名をつけし、無間地獄《むげんぢごく》のそこはかとなく景色づくり、何處にからくりのあるとも見えねど、逆さ落して血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる聲も蛇くふ雉子《きゞす》と恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打《てうち》/\あわゝの可愛げに、紙幣《さつ》と菓子との二つ取りにはおこしをお呉れと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に眞からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やの辰さんが事を、昨日も川田やが店でおちやつぴいのお六めと惡戲《ふざけ》まわして、見たくもない往來へまで擔ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡で末が遂げられやうか、まあ幾歳《いくつ》だとおもふ三十は一昨年、宜い加減に家でも拵へる仕覺をしてお呉れと逢ふ度に異見をするが、其時限りおい/\と空返事して根つから氣にも止めては呉れぬ、父さんは年をとつて、母さんと言ふは眼の惡るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれゝば宜いが、私はこれでも彼の人の半纒をば洗濯して、股引のほころびでも縫つて見たいと思つて居るに、彼んな浮いた心では何時引取つて呉れるだらう、考へるとつく/″\奉公が厭になつてお客を呼ぶに張合もない、あゝくさ/\するとて常は人をも欺す口で人の愁らきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、あゝ今日は盆の十六日だ、お焔魔樣へのお參りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣ひもらつて嬉しさうな顏してゆくは、定めて定めて二人揃つて甲斐性のある親をば持つて居るのであろ、私が息子の與太郎は今日の休みに御主人から暇が出て何處へ行つて何んな事して遊ばうとも定めし人が羨しかろ、父《とゝ》さんは呑ぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母は此樣な身になつて恥かしい紅白粉、よし居處が分つたとて彼の子は逢ひに來ても呉れまじ、去年|向島《むかふじま》の花見の時女房づくりして丸髷に結つて朋輩と共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これ/\と聲をかけしにさへ私の若く成しに呆れて、お母さんでござりますかと驚きし樣子、ましてや此大島田に折ふしは時好の花簪さしひらめかしてお客を捉らへて串戲《じようだん》いふ處を聞かば子心には悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形の蝋燭やに奉公して居まする、私は何んな愁らき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、父さんをもお前をも今に樂をばお爲せ申ます、何うぞ夫れまで何なりと堅氣の事をして一人で世渡りをして居て下され、人の女房にだけはならずに居て下されと異見を言はれしが、悲しきは女子の身の寸燐《まつち》の箱はりして一人口過しがたく、さりとて人の臺處を這ふも柔弱の身體なれば勤めがたくて、同じ憂き中にも身の樂なれば、此樣な事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言甲斐のないお袋と彼の子は定めし爪はじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日|斗《ばかり》は恥かしいと夕ぐれの鏡の前に涕ぐむもあるべし、菊の井のお力とても惡魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこそ此處の流れに落こんで嘘のありたけ串戲に其日を送つて、情は吉野紙《よしのがみ》の薄物に、螢の光ぴつかりとする斗、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他處目《よそめ》も養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたゝまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身を投ふして忍び音の憂き涕、これをば友朋輩にも洩らさじと包むに根性のしつかりした、氣のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆる蜘の糸のはかない處を知る人はなかりき、七月十六日の夜は何處の店にも客人入込みて都々《どゝ》一|端歌《はうた》の景氣よく菊の井の下座敷にはお店者《たなもの》五六人寄集まりて調子の外れし紀伊の國、自まんも恐ろしき胴間聲に霞の衣衣紋坂と氣取るもあり、力ちやんは何うした心意氣を聞かせないか、やつた/\と責められるに、お名はさゝねど此坐の中にと普通《ついツとほり》の嬉しがらせを言つて、やんや/\と喜ばれる中から、我戀は細谷川《ほそたにがは》の丸木橋わたるにや怕し渡らねばと謳ひかけしが、何をか思ひ出したやうにあゝ私は一寸失禮をします、御免なさいよとて三味線を置いて立つに、何處へゆく何處へゆく、逃げてはならないと坐中の騷ぐに照《てー》ちやん高さん少し頼むよ、直き歸るからとてずつと廊下へ急ぎ足に出しが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町の闇へ姿をかくしぬ。
お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處ともなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるまい、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつたといふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて仕舞《しまう》、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずか其樣な事も思ふまい、思ふたとて何うなる物ぞ、此樣な身で此樣な業體《げふてい》で、此樣な宿世《すくせ》で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦勞する丈間違ひであろ、あゝ陰氣らしい何だとて此樣な處に立つて居るのか、何しに此樣な處へ出て來たのか、馬鹿らしい氣違じみた、我身ながら分らぬ、もう/\皈《かへ》りませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路を氣まぎらしにとぶら/\歩るけば、行かよふ人の顏小さく/\摺れ違ふ人の顏さへも遙とほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがり居る如く、がやがやといふ聲は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の聲は、人の聲、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも氣のまぎれる物なく、人立《ひとだち》おびたゞしき夫婦あらそひの軒先などを過ぐるとも、唯我れのみは廣野の原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、氣にかゝる景色にも覺えぬは、我れながら酷《ひど》く逆上《のぼせ》て人心のないのにと覺束なく、氣が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何處へ行くとて肩を打つ人あり。
六
十六日は必らず待まする來て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城《ゆふき》の朝之助《とものすけ》に不圖出合て、あれと驚きし顏つきの例に似合ぬ狼狽《あわて》かたがをかしきとて、から/\と男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いて居たれば不意のやうに惶《あわ》てゝ仕舞ました、よく今夜は來て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中とせめられるに、何なりと仰しやれ、言譯は後にしまするとて手を取りて引けば彌次馬がうるさいと氣をつける、何うなり勝手に言はせませう、此方《こちら》は此方と人中を分けて伴ひぬ。
下座敷はいまだに客の騷ぎはげしく、お力の中座したるに不興して喧しかりし折から、店口にておやお皈《かへ》りかの聲を聞くより、客を置ざりに中座するといふ法があるか、皈つたらば此處へ來い、顏を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒の相手は出來ませぬ、大勢の中に居れば御酒の香に醉ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んで其後は知らず、今は御免なさりませと斷りを言ふてやるに、夫れで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のお店《たな》ものゝ白瓜《しろうり》が何んな事を仕出しませう、怒るなら怒れでござんすとて小女に言ひつけてお銚子の支度、來るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて氣が變つて居まするほどに其氣で附合て居て下され、御酒を思ひ切つて呑みまするから止めて下さるな、醉ふたらば介抱して下されといふに、君が醉つたを未だに見た事がない、氣が晴れるほど呑むは宜いが、又頭痛がはじまりはせぬか、何が其樣なに逆鱗《げきりん》にふれた事がある、僕らに言つては惡るい事かと問はれるに、いゑ貴君には聞て頂きたいのでござんす、醉ふと申ますから驚いてはいけませぬと嫣然《につこり》として、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。
常には左のみに心も留まらざりし結城の風采《やうす》の今宵は何となく尋常《なみ》ならず思はれて、肩巾のありて脊のいかにも高き處より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきの凄くて人を射るやうなるも威嚴の備はれるかと嬉しく、濃き髮の毛を短かく刈あげて頸足のくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりして居ると問はれて、貴君のお顏を見て居ますのさと言へば、此奴めがと睨みつけられて、おゝ怕いお方と笑つて居るに、串戲はのけ、今夜は樣子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降
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