出すに、人の惡るい事を仰しやるとてお力は起つて障子を明け、手摺りに寄つて頭痛をたゝくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品《これ》さへ頂けば何よりと帶の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、何時の間に引出した、お取かへには寫眞をくれとねだる、此次の土曜日に來て下されば御一處にうつしませうとて歸りかゝる客を左のみは止めもせず、うしろに廻りて羽織を着せながら、今日は失禮を致しました、亦のお出を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文《からせいもん》は御免だと笑ひながらさつ/\と立つて階段《はしご》を下りるに、お力帽子を手にして後から追ひすがり、嘘か誠か九十九夜の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鑄型に入つた女でござんせぬ、又|形《なり》のかはる事もありまするといふ、旦那お歸りと聞て朋輩の女、帳場の女主《あるじ》もかけ出して唯今は有がたうと同音の御禮、頼んで置いた車が來しとて此處からして乘り出せば、家中表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の餘光《ひかり》としられて、後には力ちやん大明神樣これにも有がたうの御禮山々。

       三

 客は結城朝之助《ゆふきとものすけ》とて、自ら道樂ものとは名のれども實體《じつてい》なる處折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにや是れを初めに一週には二三度の通ひ路、お力も何處となく懷かしく思ふかして三日見えねば文をやるほどの樣子を、朋輩の女子ども岡燒ながら弄《から》かひては、力ちやんお樂しみであらうね、男振はよし氣前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、其時はお前の事を奧樣とでもいふのであらうに今つから少し氣をつけて足を出したり湯呑であほるだけは廢めにおし人がらが惡いやねと言ふもあり、源さんが聞たら何うだらう氣違ひになるかも知れないとて冷評《ひやかす》もあり、あゝ馬車にのつて來る時都合が惡るいから道普請からして貰いたいね、こんな溝板のがたつく樣な店先へ夫こそ人がらが惡《わろ》くて横づけにもされないではないか、お前方も最う少しお行義《ぎやうぎ》を直してお給仕に出られるやう心がけてお呉れとずば/\といふに、ヱヽ憎くらしい其ものいひを少し直さずば奧樣らしく聞へまい、結城さんが來たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顏を見るより此樣な事を申て居まする、何うしても私共の手にのらぬやんちや[#「やんちや」に傍点]なれば貴君から叱つて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口するに、結城は眞面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの嚴命、あゝ貴君のやうにもないお力が無理にも商賣して居られるは此力と思し召さぬか、私に酒氣が離れたら坐敷は三昧堂《さんまいだう》のやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程/\とて結城は二言といはざりき。
 或る夜の月に下坐敷へは何處やらの工場の一|連《む》れ、丼たゝいて甚九かつぽれの大騷ぎに大方の女子は寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人限りなり、朝之助は寢ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるさゝうに生返事をして何やらん考へて居る樣子、何うかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれど頻に持病が起つたのですといふ、お前の持病も肝癪か、いゝゑ、血の道か、いゝゑ、夫では何だと聞かれて、何うも言ふ事は出來ませぬ、でも他の人ではなし僕ではないか何んな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病氣だといふに、病氣ではござんせぬ、唯こんな風になつて此樣な事を思ふのですといふ、困つた人だな種々《いろ/\》祕密があると見える、お父《とつ》さんはと聞けば言はれませぬといふ、お母《つか》さんはと問へば夫れも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあ嘘でも宜いさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸《ふしあはせ》だとか大底の女《ひと》は言はねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなし其位の事を發表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按摩に探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れて居るが、夫れをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつても詰らぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。
 折から下坐敷より杯盤《はいばん》を運びきし女の何やらお力に耳打して兎も角も下までお出よといふ、いや行き度ないからよしてお呉れ、今夜はお客が大變に醉ひましたからお目にかゝつたとてお話しも出來ませぬと斷つてお呉れ、あゝ困つた人だねと眉を寄せるに、お前それでも宜いのかへ、はあ宜いのさとて膝の上で撥《ばち》を弄《もてあそ》べば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、逢つて來たら宜からう、何もそんなに體裁には及ばぬではないか、可愛い人を素戻しもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此處へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談はぬきにして結城さん貴君に隱くしたとて仕方がないから申ますが町内で少しは巾もあつた蒲團やの源七といふ人、久しい馴染でござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さな家にまい/\つぶろの樣になつて居まする、女房もあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに來る歳ではなけれど、縁があるか未だに折ふし何の彼のといつて、今も下坐敷へ來たのでござんせう、何も今さら突出すといふ譯ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らず障らず歸した方が好いのでござんす、恨まれるは覺悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を疊に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかと嬲《なぶ》る、あゝ最う歸つたと見えますとて茫然《ぼん》として居るに、持病といふのは夫れかと切込まれて、まあ其樣な處でござんせう、お醫者樣でも草津の湯でもと薄淋しく笑つて居るに、御本尊を拜みたいな俳優《やくしや》で行つたら誰れの處だといへば、見たら吃驚でござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意氣かと問はれて、此樣な店で身上はたくほどの人、人の好いばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑しくも何ともない人といふに、夫れにお前は何うして逆上《のぼ》せた、これは聞き處と客は起かへる、大方|逆上性《のぼせしやう》なのでござんせう、貴君の事をも此頃は夢に見ない夜はござんせぬ、奧樣のお出來なされた處を見たり、ぴつたりと御出のとまつた處を見たり、まだ/\一層《もつと》かなしい夢を見て枕紙がびつしよりに成つた事もござんす、高ちやんなぞは夜る寐るからとても枕を取るよりはやく鼾の聲たかく、好い心持らしいが何んなに浦山しうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入ると目が冴へて夫は夫は色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察して居て下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふか夫れこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がない故人前ばかりの大陽氣、菊の井のお力は行ぬけの締りなしだ、苦勞といふ事はしるまいと言ふお客樣もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然《さめ/″\》とするに、珍らしい事陰氣のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末《もとすゑ》をしらぬから方がつかぬ、夢に見てくれるほど實があらば奧樣にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお聲がかりも無いは何ういふ物だ、古風に出るが袖ふり合ふもさ、こんな商賣を嫌だと思ふなら遠慮なく打明けばなしを爲るが宜い、僕は又お前のやうな氣では寧《いつそ》氣樂だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、夫れでは何か理屈があつて止むを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうと此間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故/\、何故でもいけませぬ、私が我まゝ故、申まいと思ふ時は何うしても嫌やでござんすとて、ついと立つて椽がはへ出るに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころ[#「からころ」に傍点]と駒下駄の音さして行かふ人のかげ分明《あきらか》なり、結城さんと呼ぶに、何だとて傍へゆけば、まあ此處へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つ計の、彼子《あれ》が先刻の人のでござんす、あの小さな子心にもよく/\憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあ其樣な惡者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、堪へかねたる樣子は五音《ごいん》の調子にあらはれぬ。

       四

 同じ新開の町はづれに八百屋と髮結床が庇合《ひあはい》のやうな細露路、雨が降る日は傘もさゝれぬ窮屈さに、足もととては處々に溝板の落し穴あやふげなるを中にして、兩側に立てたる棟割長屋、突當りの芥溜《ごみため》わきに九尺二間の上り框《かまち》朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、流石に一方口にはあらで山の手の仕合は三尺斗の椽の先に草ぼう/\の空地面それが端を少し圍つて青紫蘇《あをじそ》、ゑぞ菊、隱元豆の蔓などを竹のあら垣に搦《から》ませたるがお力が處縁の源七が家なり、女房はお初といひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お齒黒はまだらに生へ次第の眉毛みるかげもなく、洗ひざらしの鳴海《なるみ》の浴衣を前と後を切りかへて膝のあたりは目立ぬやうに小針のつぎ當、狹帶《せまおび》きりゝと締めて蝉表の内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、揃へたる籘を天井から釣下げて、しばしの手數も省かんとて數のあがるを樂しみに脇目もふらぬ樣あはれなり。もう日が暮れたに太吉は何故かへつて來ぬ、源さんも又何處を歩いて居るかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦勞らしく目をぱちつかせて、更に土瓶の下を穿《ほじ》くり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出し、拾ひ集めの杉の葉を被せてふう/\と吹立れば、ふす/\と烟たちのぼりて軒場にのがれる蚊の聲凄まじゝ、太吉はがた/\と溝板の音をさせて母さん今戻つた、お父さんも連れて來たよと門口から呼立るに、大層おそいではないかお寺の山へでも行はしないかと何の位案じたらう、早くお這入といふに太吉を先に立てゝ源七は元氣なくぬつと上る、おやお前さんお歸りか、今日は何んなに暑かつたでせう、定めて歸りが早からうと思うて行水を沸かして置ました、ざつと汗を流したら何うでござんす、太吉もお湯《ぶう》に這入なといへば、あいと言つて帶を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに盥を据へて釜の湯を汲出し、かき廻して手拭を入れて、さあお前さん此子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと爲てお出なさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つて居ますからといふに、おゝ左樣だと思ひ出したやうに帶を解いて流しへ下りれば、そゞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の臺處で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手傳ひして車の跡押にと親は生つけても下さるまじ、あゝ詰らぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、父ちやん脊中を洗つてお呉れと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々《さつ/\》とお上りなされと妻も氣をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒《ざら》せしさば/\の裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帶まきつけて風の透く處へゆけば、妻は能代《のしろ》の膳のはげかゝりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴《ひやゝつこ》にしましたとて小丼に豆腐を浮かせて青紫蘇の香たかく持出せば、太吉は何時しか臺より飯櫃取おろして、よつちよいよつちよい[#「よつちよいよつちよい」に傍点]と擔ぎ出す、坊主は我れが傍に來いとて頭《つむり》を撫でつゝ箸を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覺えの無くて咽の穴はれたる如く、もう止めにするとて茶碗を置けば、其樣
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