もちなら主人が怕《こは》く親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方も追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、夫なら廢せとて夫れ限りに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る邊なげなる風情、もう此樣な話しは廢しにして陽氣にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騷ぎぬかうと思ひますとて手を扣《たゝ》いて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が來るに、おい此娘の可愛い人は何といふ名だと突然《だしぬけ》に問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が來るに焔魔樣《ゑんまさま》へお參りが出來まいぞと笑へば、夫れだとつて貴君今日お目にかゝつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとして居ましたといふ、夫れは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿/\お力が怒るぞと大景氣、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商賣を當て見ませうかとお高がいふ、何分願ひますと手のひらを差出せば、いゑ夫には及びませぬ人相で見まするとて如何にも落つきたる顏つき、よせ/\じつと眺められて棚おろしでも始まつては溜らぬ、斯う見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員樣があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御|褒賞《はうび》だと懷中から紙入れを出せば、お力笑ひながら高ちやん失禮をいつてはならない此お方は御大身の御華族樣おしのびあるきの御遊興さ、何の商賣などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲團の上に乘せて置きし紙入れを取あげて、お相方《あひかた》の高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でも遣はしませうとて答へも聞かずずん/\と引出すを、客は柱に寄かゝつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。
お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何宜いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の拂ひを取つて殘りは一同《みんな》にやつても宜いと仰しやる、お禮を申て頂いてお出でと蒔散らせば、これを此娘の十八番に馴れたる事とて左のみは遠慮もいふては居ず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有《あり》がたうございますと掻きさらつて行くうしろ姿、十九にしては更けてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の惡るい事を仰しやるとてお力は起つて障子を明け、手摺りに寄つて頭痛をたゝくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品《これ》さへ頂けば何よりと帶の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、何時の間に引出した、お取かへには寫眞をくれとねだる、此次の土曜日に來て下されば御一處にうつしませうとて歸りかゝる客を左のみは止めもせず、うしろに廻りて羽織を着せながら、今日は失禮を致しました、亦のお出を待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文《からせいもん》は御免だと笑ひながらさつ/\と立つて階段《はしご》を下りるに、お力帽子を手にして後から追ひすがり、嘘か誠か九十九夜の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鑄型に入つた女でござんせぬ、又|形《なり》のかはる事もありまするといふ、旦那お歸りと聞て朋輩の女、帳場の女主《あるじ》もかけ出して唯今は有がたうと同音の御禮、頼んで置いた車が來しとて此處からして乘り出せば、家中表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の餘光《ひかり》としられて、後には力ちやん大明神樣これにも有がたうの御禮山々。
三
客は結城朝之助《ゆふきとものすけ》とて、自ら道樂ものとは名のれども實體《じつてい》なる處折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにや是れを初めに一週には二三度の通ひ路、お力も何處となく懷かしく思ふかして三日見えねば文をやるほどの樣子を、朋輩の女子ども岡燒ながら弄《から》かひては、力ちやんお樂しみであらうね、男振はよし氣前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、其時はお前の事を奧樣とでもいふのであらうに今つから少し氣をつけて足を出したり湯呑であほるだけは廢めにおし人がらが惡いやねと言ふもあり、源さんが聞たら何うだらう氣違ひになるかも知れないとて冷評《ひやかす》もあり、あゝ馬車にのつて來る時都合が惡るいから道普請からして貰いたいね、こんな溝板のがたつく樣な店先へ夫こそ人がらが惡《わろ》くて横づけにもされないではないか、お前方も最う少しお行義《ぎやうぎ》を直してお給仕に出られるやう心がけてお呉れとずば/\といふに、ヱヽ憎くらしい其ものいひを少し直さずば奧樣らしく聞へまい、結城さんが來たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顏を見るより此樣な事を申て居
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