も思ふて眞人間になつて下され、御酒を呑で氣を晴らすは一時、眞から改心して下さらねば心元なく思はれますとて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向ふしたる心根の愁《つら》さ、其身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供まで儲けし我れに心かぎりの辛苦《くらう》をさせて、子には襤褸《ぼろ》を下げさせ家とては二疊一間の此樣な犬小屋、世間一體から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋の彼岸が來ればとて、隣近處に牡丹もち團子と配り歩く中を源七が家へは遣らぬが能い、返禮が氣の毒なとて、心切《しんせつ》かは知らねど十軒長屋の一軒は除け物、男は外出《そとで》がちなればいさゝか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕の挨拶も人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、其れをば思はで我が情婦《こひ》の上ばかりを思ひつゞけ、無情《つれな》き人の心の底が夫れほどまでに戀しいか、晝も夢に見て獨言にいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはてゝお力一人に命をも遣る心か、あさましい口惜しい愁らい人と思ふに中々言葉は出ずして恨みの露を眼の中にふくみぬ。
物いはねば狹き家の内も何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火《あかり》をつけて蚊遣りふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそ/\と歸り來る太吉郎の姿、何やらん大袋を兩手に抱へて母さん母さんこれを貰つて來たと莞爾《につこ》として驅け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おや此樣な好いお菓子を誰れに貰つて來た、よくお禮を言つたかと問へば、あゝ能くお辭儀をして貰つて來た、これは菊の井の鬼姉さんが呉れたのと言ふ、母は顏色かへて圖太い奴めが是れほどの淵に投げ込んで未だいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひに父さんの心を動かしに遣《よこ》し居る、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな處に遊んで居たらば何處のか伯父さんと一處に來て、菓子を買つてやるから一處にお出といつて、我《おい》らは入らぬと言つたけれど抱いて行つて買つて呉れた、喰べては惡いかへと流石に母の心を斗《はか》りかね、顏をのぞいて猶豫するに、あゝ年がゆかぬとて何たら譯の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者《なまけもの》にした鬼ではないか、お前の衣類《べゞ》のなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、喰《くら》ひついても飽き足らぬ惡魔にお菓子を貰つた喰べても能いかと聞くだけが情ない、汚い穢《むさ》い此樣な菓子、家へ置くのも腹がたつ、捨て仕舞な、捨てお仕舞、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めと罵りながら袋をつかんで裏の空地へ投出せば、紙は破れて轉び出る菓子の、竹のあら垣打こえて溝の中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一聲大きくいふに何か御用かよ、尻目にかけて振むかふともせぬ横顏を睨んで、能い加減に人を馬鹿にしろ、默つて居れば能い事にして惡口雜言は何の事だ、知人《しつたひと》なら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が惡い、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけに我《お》れへの當こすり、子に向つて父親の讒訴《ざんそ》をいふ女房|氣質《かたぎ》を誰れが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商賣人のだましは知れて居れど、妻たる身の不貞腐れをいふて濟むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の權がある、氣に入らぬ奴を家には置かぬ、何處へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女郎《めらう》めと叱りつけられて、夫れはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に當つけよう、この子が餘り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまでは慘《むご》う御座んす、家の爲をおもへばこそ氣に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどなら此樣な貧乏世帶の苦勞をば忍んでは居ませぬと泣くに貧乏世帶に飽きがきたなら勝手に何處なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れても我《お》れが店おろしかお力への妬み、つくづく聞き飽きてもう厭やに成つた、貴樣が出ずば何《どち》ら道同じ事をしくもない九尺二間、我れが小僧を連れて出やう、さうならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴樣が行くか、我れが出ようかと烈しく言はれて、お前はそんなら眞實《ほんとう》に私を離縁する心かへ、知れた事よと例《いつも》の源七にはあらざりき。
お初は口惜しく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上る涕《なみだ》を呑込んで、これは私が惡う御座んした、堪忍をして下され、お力が親切で志して呉れたものを捨て仕舞つたは重々惡う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決し
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