しばしの手數も省かんとて數のあがるを樂しみに脇目もふらぬ樣あはれなり。もう日が暮れたに太吉は何故かへつて來ぬ、源さんも又何處を歩いて居るかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦勞らしく目をぱちつかせて、更に土瓶の下を穿《ほじ》くり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出し、拾ひ集めの杉の葉を被せてふう/\と吹立れば、ふす/\と烟たちのぼりて軒場にのがれる蚊の聲凄まじゝ、太吉はがた/\と溝板の音をさせて母さん今戻つた、お父さんも連れて來たよと門口から呼立るに、大層おそいではないかお寺の山へでも行はしないかと何の位案じたらう、早くお這入といふに太吉を先に立てゝ源七は元氣なくぬつと上る、おやお前さんお歸りか、今日は何んなに暑かつたでせう、定めて歸りが早からうと思うて行水を沸かして置ました、ざつと汗を流したら何うでござんす、太吉もお湯《ぶう》に這入なといへば、あいと言つて帶を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとに盥を据へて釜の湯を汲出し、かき廻して手拭を入れて、さあお前さん此子をもいれて遣つて下され、何をぐたりと爲てお出なさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つて居ますからといふに、おゝ左樣だと思ひ出したやうに帶を解いて流しへ下りれば、そゞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の臺處で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手傳ひして車の跡押にと親は生つけても下さるまじ、あゝ詰らぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、父ちやん脊中を洗つてお呉れと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々《さつ/\》とお上りなされと妻も氣をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひ晒《ざら》せしさば/\の裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帶まきつけて風の透く處へゆけば、妻は能代《のしろ》の膳のはげかゝりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴《ひやゝつこ》にしましたとて小丼に豆腐を浮かせて青紫蘇の香たかく持出せば、太吉は何時しか臺より飯櫃取おろして、よつちよいよつちよい[#「よつちよいよつちよい」に傍点]と擔ぎ出す、坊主は我れが傍に來いとて頭《つむり》を撫でつゝ箸を取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覺えの無くて咽の穴はれたる如く、もう止めにするとて茶碗を置けば、其樣
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