心頼みに有るまじき事とは思へども明日は日暮も待たず車を飛ばせ來るに、容體こと/″\く變りて何を言へども嫌々とて人の顏をば見るを厭ひ、父母をも兄をも女子どもをも寄せつけず、知りませぬ、知りませぬ、私は何も知りませぬとて打泣くばかり、家の中をば廣き野原と見て行く方なき歎きに人の袖をもしぼらせぬ。
俄かに暑氣つよく成し八月の中旬《なかば》より狂亂いたく募りて人をも物をも見分ちがたく、泣く聲は晝夜に絶えず、眠るといふ事ふつに無ければ落入たる眼に形相すさまじく此世の人とも覺えず成ぬ、看護の人も疲れぬ、雪子の身も弱りぬ、きのふも植村に逢ひしと言ひ、今日も植村に逢ひたりと言ふ、川一つ隔てゝ姿を見るばかり、霧の立おほふて朧氣なれども明日は明日はと言ひて又そのほかに物いはず。
いつぞは正氣に復《かへ》りて夢のさめたる如く、父樣母樣といふ折の有りもやすと覺束なくも一日二日と待たれぬ、空蝉《うつせみ》はからを見つゝもなぐさめつ、あはれ門なる柳に秋風のおと聞こえずもがな。
[#地から2字上げ](明治二十八年八月二十七――三十一日「讀賣新聞」)
底本:講談社「日本現代文学全集 10 樋口一葉集」
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