とて來るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七圓五十錢といふに、夫れは下町の相場とて折かへして來るは無かりき、さるほどに此ほどの朝まだき四十に近かるべき年輩《としごろ》の男、紡績織の浴衣《ゆかた》も少し色のさめたるを着て、至極そゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]と落つき無きが差配のもとに來たりて此家の見たしといふ、案内して其處此處と戸棚の數などを見せてあるくに、其等のことは片耳にも入れで、唯|四邊《あたり》の靜にさわやかなるを喜び、今日より直にお借り申まする、敷金は唯今置いて參りまして、引越しは此夕暮、いかにも急速では御座りますが直樣掃除にかゝりたう御座りますとて、何の子細なく約束はとゝのひぬ、お職業はと問へば、いゑ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧の答へなり、御人數はと聞かれて、其何だか四五人の事も御座りますし、七八人にも成りますし、始終《とほし》ごた/\して埓は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れがたに引移り來たりしは、相乘りの幌かけ車に姿をつゝみて、開きたる門を眞直に入りて玄關におろしければ、主は男とも女とも人には見えじと思ひし
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