うつせみ
樋口一葉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)疵《きず》にして
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)他には申|旨《むね》のなき
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごた/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
(一)
家の間數は三疊敷の玄關までを入れて五間、手狹なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は廣々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場處も小石川の植物園にちかく物靜なれば、少しの不便を疵《きず》にして他には申|旨《むね》のなき貸家ありけり、門の柱に札をはりしより大凡《おほよそ》三月ごしにも成けれど、いまだに住人《すみて》のさだまらで、主なき門の柳のいと、空しくなびくも淋しかりき、家は何處までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人三人の拜見をとて來るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七圓五十錢といふに、夫れは下町の相場とて折かへして來るは無かりき、さるほどに此ほどの朝まだき四十に近かるべき年輩《としごろ》の男、紡績織の浴衣《ゆかた》も少し色のさめたるを着て、至極そゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]と落つき無きが差配のもとに來たりて此家の見たしといふ、案内して其處此處と戸棚の數などを見せてあるくに、其等のことは片耳にも入れで、唯|四邊《あたり》の靜にさわやかなるを喜び、今日より直にお借り申まする、敷金は唯今置いて參りまして、引越しは此夕暮、いかにも急速では御座りますが直樣掃除にかゝりたう御座りますとて、何の子細なく約束はとゝのひぬ、お職業はと問へば、いゑ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧の答へなり、御人數はと聞かれて、其何だか四五人の事も御座りますし、七八人にも成りますし、始終《とほし》ごた/\して埓は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れがたに引移り來たりしは、相乘りの幌かけ車に姿をつゝみて、開きたる門を眞直に入りて玄關におろしければ、主は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど、乘り居たるは三十計の氣の利きし女中風と、今一人は十八か、九には未だと思はるゝやうの病美人、顏にも手足にも血の氣といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白きがいたましく見えて、折から世話やきに來て居たりし、差配が心に、此人《これ》を先刻《さき》のそゝくさ[#「そゝくさ」に傍点]男が妻とも妹とも受とられぬと思ひぬ。
荷物といふは大八に唯一くるま來たりしばかり、兩隣にお定めの土産は配りけれども、家の内は引越らしき騷ぎもなく至極ひつそりとせし物なり。人數は彼のそゝくさに此女中と、他には御飯たきらしき肥大女《ふとつてう》および、その夜に入りてより車を飛ばせて二人ほど來たりし人あり、一人は六十に近かるべき人品よき剃髮の老人、一人は妻なるべし對するほどの年輩《とし》にてこれは實法《じばふ》に小さき丸髷をぞ結ひける、病みたる人は來るよりやがて奧深に床を敷かせて、括り枕に頭《つむり》を落つかせけるが、夜もすがら枕近くにありて悄然《しよんぼり》とせし老人二人の面《おも》やう、何處やら寢顏に似た處のあるやうなるは、此娘《このこ》の若しも父母にては無きか、彼のそゝくさ男を始めとして女中ども一同旦那さま御新造樣《ごしんぞさま》と言へば、應々《おい/\》と返事して、男の名をば太吉々々と呼びて使ひぬ。
あくる朝風すゞしきほどに今一人車を乘りつけゝる人の有けり、紬《つむぎ》の單衣に白ちりめんの帶を卷きて、鼻の下に薄ら髯のある三十位のでつぷりと太《ふとり》て見だてよき人、小さき紙に川村太吉《かはむらたきち》と書て張りたるを讀みて此處だ/\と車よりおりける、姿を見つけて、おゝ番町の旦那樣とお三どんが眞先に襷をはづせば、そゝくさは飛出していやお早いお出、よく早速おわかりに成りましたな、昨日まで大塚にお置き申したので御座りますが何分|最早《もう》、その何だか頻に嫌にお成りなされて何處へか行かう行かうと仰しやる、仕方が御座りませぬで漸《やつ》とまあ此處をば見つけ出しまして御座ります、御覽下さりませ一寸こうお庭も廣う御座りますし、四隣《まはり》が遠うござりますので御氣分の爲にも良からうかと存じまする、はい昨夜はよくお眠《やすみ》に成ましたが今朝ほどは又少しその、一寸御樣子が變つたやうで、ま、いらしつて御覽下さりませと先に立て案内をすれば、心配らしく髭をひねりて奧の座敷に通りぬ。
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング