(二)
氣分すぐれて良き時は三歳兒《みつご》のやうに父母の膝に眠《ねぶ》るか、白紙を切つて姉樣の製造《おつくり》に餘念なく、物を問へばにこ/\と打笑みて唯はい/\と意味もなき返事をする温順《おとな》しさも、狂風一陣梢をうごかして來る氣の立つた折には、父樣も母樣も兄樣も誰れも後生顏を見せて下さるな、とて物陰にひそんで泣く、聲は腸を絞り出すやうにて私が惡う御座りました、堪忍して堪忍してと繰返し/\、さながら目の前の何やらに向つて詫るやうに言ふかと思へば、今行まする、今行まする、私もお跡から參りまするとて日のうちには看護《まもり》の暇をうかゞひて驅け出すこと二度三度もあり、井戸には蓋を置き、きれ物とては鋏刀《はさみ》一挺目にかゝらぬやうとの心配りも、危きは病ひのさする業かも、此|纎《か》弱き娘一人とり止むる事かなはで、勢ひに乘りて驅け出す時には大の男二人がゝりにても六つかしき時の有ける。
本宅は三番町の何處やらにて表札を見ればむゝ彼の人の家かと合點のゆくほどの身分、今さら此處には言はずもがな、名前の恥かしければ病院へ入れる事もせで、醫者は心安きを招き家は僕の太吉といふが名を借りて心まかせの養生、一月と同じ處に住へば見る物殘らず嫌やに成りて、次第に病ひのつのる事見る目も恐ろしきほど悽まじき事あり。
當主は養子にて此娘《これ》こそは家につきての一粒ものなれば父母が歎きおもひやるべし、病ひにふしたるは櫻さく春の頃よりと聞くに、夫れよりの晝夜|※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を合する間もなき心配に疲れて、老たる人はよろよろたよ/\と二人ながら力なさゝうの風情、娘が病ひの俄かに起りて私は最う歸りませぬとて驅け出すを見る折にも、あれ/\何うかして呉れ、太吉/\と呼立るほかには何の能なく情なき體なり。
昨夜は夜もすがら靜に眠りて、今朝は誰れより一はな懸けに目を覺し、顏を洗ひ髮を撫でつけて着物もみづから氣に入りしを取出し、友仙の帶に緋ぢりめんの帶あげも人手を借ずに手ばしこく締めたる姿、不圖見たる目には此樣の病人とも思ひ寄るまじき美くしさ、兩親は見返りて今更に涕ぐみぬ、附そひの女が粥の膳を持來たりて召上りますかと問へば、嫌や嫌やと頭をふりて意氣地もなく母の膝へ寄そひしが、今日は私の年季《ねん》が明まするか、歸る事が出來るで御座んせうかとて問ひかけるに、年季が明るといつて何處へ歸る了簡、此處はお前さんの家では無いか、此ほかに行くところも無からうでは無いか、分らぬ事を言ふ物ではありませぬと叱られて、夫でも母樣私は何處へか行くので御座りませう、あれ彼處に迎ひの車が來て居まする、とて指さすを見れば軒端のもちの木に大いなる蛛《くも》の巣のかゝりて、朝日にかゞやきて金色の光ある物なりける。
母は情なき思ひの胸に迫り來て、あれ彼んな事を、貴君お聞遊しましたかと良人に向ひて忌はし氣にいひける、娘は俄に萎《しを》れかへりし面に生々とせし色を見せて、あの夫れ一昨年のお花見の時ねと言[#「言」は底本では「言言」]ひ出す、何ゑと受けて聞けば學校の庭は奇麗でしたねへとて面しろさうに笑ふ、あの時貴君が下《くだ》すつた花をね、私は今も本の間へ入れてありまする、奇麗な花でしたけれども最う萎れて仕舞ました、貴君には彼れから以來御目にかゝらぬでは御座んせぬか、何故逢ひに來て下さらないの、何故歸つて來て下さらぬの、もうお目にかゝる事は一生出來ぬので御座んするか、夫れは私が惡う御座りました、私が惡いに相違ござんせぬけれど、夫れは兄樣が、兄が、あゝ誰れにも濟ませぬ、私が惡う御座りました免して免してと胸を抱いて苦しさうに身を悶ゆれば、雪子や何も餘計な事を考へては成りませぬよ、それがお前の病氣なのだから、學校も花もありはしない、兄樣も此處にお出でなさつては居ないのに、何か見えるやうに思ふのが病氣なのだから氣を落つけて舊《もと》の雪子さんに成てお呉れ、よ、よ、氣が付きましたかへと脊を撫でられて、母の膝の上にすゝり泣きの聲ひくゝ聞えぬ。
(三)
番町の旦那樣お出と聞くより雪や兄樣がお見舞に來て下されたと言へど、顏を横にして振向ふともせぬ無禮を、常ならば怒りもすべき事なれど、ああ、捨てゝ置いて下さい、氣に逆らつてもならぬからとて義母《はゝ》が手づから與へられし皮蒲團を貰ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして柱の際に默然として居る父に向ひ、靜に一つ二つ詞を交へぬ。
番町の旦那といふは口數少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはた[#「はた」に傍点]/\と團扇づかひするか、卷煙草の灰を拂つては又火をつけて手に持て居る位なもの、絶えず尻目に雪子の方を眺めて困つたものですなと言ふ計、あゝ此樣《こん》な事と知りましたら早くに方法も有つたのでせうが今に
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