》は道理がよく了解《わか》る人では無いか、氣を靜めて考へ直して呉れ、植村の事は今更取かへされぬ事であるから、跡でも懇に吊《ともら》つて遣れば、お前が手づから香花《かうはな》でも手向れば、彼れは快よく瞑する事が出來ると遺書にも有つたと言ふでは無いか、彼れは潔よく此世を思ひ切つたので、お前の事も合せて思ひ切つたので決《けツ》して未練は殘して居なかつたに、お前が此樣に本心を取亂して御兩親に歎をかけると言ふは解らぬでは無いか、彼れに對してお前の處置の無情であつたも彼は決して恨んでは居なかつた、彼れは道理を知つて居る男であらう、な、左樣であらう、校内|一流《いち》の人だとお前も常に褒めたではないか、其人であるから決してお前を恨んで死ぬ、其樣な事はある筈がない、憤りは世間に對してなので、既に其事《それ》は人も知つて居る事なり遺書によつて明かでは無いか、考へ直して正氣に成つて、其の後の事はお前の心に任せるから思ふまゝの世を經るが宜い、御兩親のある事を忘れないで、御兩親が何れほどお歎きなさるかを考へて、氣を取直して呉れ、ゑ、宜いか、お前が心で直さうと思へば今日の今も直れるでは無いか、醫者にも及ばぬ、藥にも及ばぬ、心一つ居處をたしかにしてな、直つて呉れ、よ、よ、こら雪、宜いか、解つたかと言へば、唯うなづいて、はいはいと言ふ。
女子どもは何時しか枕もとを遠慮《はづ》して四邊には父と母と正雄のあるばかり、今いふ事は解るとも解らぬとも覺えねども兄樣兄樣と小さき聲に呼べば、何か用かと氷袋を片寄せて傍近く寄るに、私を起して下され、何故か身體が痛くてと言ふ、夫れは何時も氣の立つまゝに驅け出して大の男に捉へられるを、振はなすとて恐ろしい力を出せば定めし身も痛からう生疵《なまきず》も處々に有るを、それでも身體の痛いが知れるほどならばと果敢なき事をも兩親《ふたおや》は頼母しがりぬ。
お前の抱かれて居るは誰君《どなた》、知れるかへと母親の問へば、言下に兄樣で御座りませうと言ふ、左樣わかれば最う子細はなし、今話して下された事覺えてかと言へば、知つて居まする、花は盛りにと又あらぬ事を言ひ出せば、一同かほを見合せて情なき思ひなり。
良《やゝ》しばしありて雪子は息の下に極めて恥かしげの低き聲して、最う後生お願ひで御座りまする、其事は言ふて下さりますな、其やうに仰せ下さりましても私にはお返事の致しやうが御座りませぬと言ひ出るに、何をと母が顏を出せば、あ、植村さん、植村さん、何處へお出遊ばすのと岸破《がば》と起きて、不意に驚く正雄の膝を突のけつゝ椽の方へと驅け出すに、それとて一同ばら/\と勝手より太吉おくらなど飛來るほどに左のみも行かず椽先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍して下され、私が惡う御座りました、始めから私が惡う御座りました、貴君に惡い事は無い、私が、私が、申さないが惡う御座りました、兄と言ふては居りまするけれど。むせび泣きの聲聞え初めて斷續の言葉その事とも聞わき難く、半かゝげし軒ばの簾《すだれ》、風に音する夕ぐれ淋し。
(五)
雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も昨一日《をとゝひ》も、三月の以前も其前も、更に異なる事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、學校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、戀しき君、さる詞をば次第なく並べて、身は此處に心はもぬけの※[#「士/冖/一/几」、第4水準2−5−22]《から》に成りたれば、人の言へるは聞分るよしも無く、樂しげに笑ふは無心の昔しを夢みてなるべく、胸を抱きて苦悶するは遣るかた無かりし當時のさまの再び現にあらはるゝなるべし。
おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで孃さまに罪ありとはいささかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷にお根がけは櫻色を重ねたる白の丈長、平打の銀簪《ぎんかん》一つ淡泊《あつさり》と遊して學校がよひのお姿今も目に殘りて、何時舊のやうに御平癒《おなほり》あそばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、學問はゑらからうとも何うで此方《うち》のお孃さまが對にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、夫れはお前が知らぬから其樣な憎くていな事も言へるものの、三日|交際《つきあひ》をしたら植村樣のあと追ふて三途の川まで行きたくならう、番町の若旦那を惡いと言ふではなけれど、彼方とは質《たち》が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村樣が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お孃さまの身に成つては愁《つ》らからうでは無いか、私やお前のやうなおつと來い[#「おつと來い」に傍点]ならば事は無いけれど、不斷つゝしんでお出遊ばすだけ身にし
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