るといつて何處へ歸る了簡、此處はお前さんの家では無いか、此ほかに行くところも無からうでは無いか、分らぬ事を言ふ物ではありませぬと叱られて、夫でも母樣私は何處へか行くので御座りませう、あれ彼處に迎ひの車が來て居まする、とて指さすを見れば軒端のもちの木に大いなる蛛《くも》の巣のかゝりて、朝日にかゞやきて金色の光ある物なりける。
 母は情なき思ひの胸に迫り來て、あれ彼んな事を、貴君お聞遊しましたかと良人に向ひて忌はし氣にいひける、娘は俄に萎《しを》れかへりし面に生々とせし色を見せて、あの夫れ一昨年のお花見の時ねと言[#「言」は底本では「言言」]ひ出す、何ゑと受けて聞けば學校の庭は奇麗でしたねへとて面しろさうに笑ふ、あの時貴君が下《くだ》すつた花をね、私は今も本の間へ入れてありまする、奇麗な花でしたけれども最う萎れて仕舞ました、貴君には彼れから以來御目にかゝらぬでは御座んせぬか、何故逢ひに來て下さらないの、何故歸つて來て下さらぬの、もうお目にかゝる事は一生出來ぬので御座んするか、夫れは私が惡う御座りました、私が惡いに相違ござんせぬけれど、夫れは兄樣が、兄が、あゝ誰れにも濟ませぬ、私が惡う御座りました免して免してと胸を抱いて苦しさうに身を悶ゆれば、雪子や何も餘計な事を考へては成りませぬよ、それがお前の病氣なのだから、學校も花もありはしない、兄樣も此處にお出でなさつては居ないのに、何か見えるやうに思ふのが病氣なのだから氣を落つけて舊《もと》の雪子さんに成てお呉れ、よ、よ、氣が付きましたかへと脊を撫でられて、母の膝の上にすゝり泣きの聲ひくゝ聞えぬ。

       (三)

 番町の旦那樣お出と聞くより雪や兄樣がお見舞に來て下されたと言へど、顏を横にして振向ふともせぬ無禮を、常ならば怒りもすべき事なれど、ああ、捨てゝ置いて下さい、氣に逆らつてもならぬからとて義母《はゝ》が手づから與へられし皮蒲團を貰ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして柱の際に默然として居る父に向ひ、靜に一つ二つ詞を交へぬ。
 番町の旦那といふは口數少なき人と見えて、時たま思ひ出したやうにはた[#「はた」に傍点]/\と團扇づかひするか、卷煙草の灰を拂つては又火をつけて手に持て居る位なもの、絶えず尻目に雪子の方を眺めて困つたものですなと言ふ計、あゝ此樣《こん》な事と知りましたら早くに方法も有つたのでせうが今に
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