《え》がましき事とおもふ。この池かへさせてなど言へども、まださながらにてなん。明《あけ》ぬれば月は空に帰りて余波《なごり》もとゞめぬを、硯はいかさまになりぬらん、夜《よ》な/\影や待《まち》とるらんと哀《あはれ》なり。
 嬉《うれ》しきは月の夜《よ》の客人《まれびと》、つねは疎々《うとうと》しくなどある人の心安げに訪《と》ひ寄《より》たる。男にても嬉しきを、まして女の友にさる人あらば、いかばかり嬉しからん。みづから出《いづ》るに難《かた》からば文《ふみ》にてもおこせかし。歌よみがましきは憎くき物なれど、かかる夜《よ》の一《ひ》ト言《こと》には身にしみて思ふ友ともなりぬべし。大路《おほぢ》ゆく辻占《つじうら》うりのこゑ、汽車の笛の遠くひゞきたるも、何《なに》とはなしに魂あくがるゝ心地す。


        雁《かり》がね

 朝月夜《あさづくよ》のかげ空に残りて、見し夢の余波《なごり》もまだ現《うつつ》なきやうなるに、雨戸あけさして打《うち》ながむれば、さと吹く風|竹《たけ》の葉《は》の露を払ひて、そゞろ寒けく身にしみ渡る折《をり》しも、落《おち》くるやうに雁がねの聞えたる、孤《ひと》
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
樋口 一葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング