思へばそれも昔しなりけり。をしへし人は苔《こけ》の下になりて、習ひとりし身は大方《おほかた》もの忘れしつ。かくたまさかに取出《とりいづ》るにも指の先こわきやうにて、はか/″\しうは得《え》も縫《ぬ》ひがたきを、かの人あらばいかばかり言ふ甲斐《かひ》なく浅ましと思ふらん、など打返しそのむかしの恋しうて、無端《そゞろ》に袖《そで》もぬれそふ心地す。
遠くより音して歩《あゆ》み来《く》るやうなる雨、近き板戸に打《うち》つけの騒がしさ、いづれも淋しからぬかは。老《おい》たる親の痩《や》せたる肩もむとて、骨の手に当りたるも、かかる夜《よ》はいとゞ心細さのやるかたなし。
月《つき》の夜《よ》
村雲《むらくも》すこし有るもよし、無きもよし。みがき立てたるやうの月のかげに尺八《しやくはち》の音《ね》の聞えたる、上手《じやうず》ならばいとをかしかるべし。三味《さみ》も同じこと、琴《こと》は西片町《にしかたまち》あたりの垣根《かきね》ごしに聞《きき》たるが、いと良き月に弾く人のかげも見まほしく、物がたりめきて床《ゆか》しかりし。親しき友に別れたる頃《ころ》の月、いとなぐさめがたう
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