操は殆ど文樂座のそれと大差はなかつた。主役の人形を三人で使ふのも、人形の眼・眉・口・指等が動くのも、又人形の大さも殆ど同じである。それとこれとは恐らく創設以來密接な相關關係があつて、相互に影響し合つたであらうと云ふことは想像に難くない。義太夫物で一番古いとされてゐるのは矢張り近松作の「國性爺」と「心中天網島」であるが、それとても敢へて文樂以前の古體、特別に舊い形式手法が殘つてゐるのではない。勿論細部に渉つて稠密な比較研究を行つたならば、地方的な色彩なり古風な樣式なりが保存されてゐるだらうと云ふことは否定されない。だが之れは一つの大きなメトオドのなかの小さな變化であるにとどまつて、メトオドそのものの相違と見なすことは出來ない。從つてそこには淡路の人形操を特質づけるものが存在しない。この意味から云へば上村源之丞の操は方法論的にも形態論的にも文樂の操と全然同じ範疇に屬するものと斷定して差支へないのである。
 然しながらそれは義太夫物に限つての話である。淡路ではこの外に必らず序曲的上演題目として「夷舞はし」「三番叟」の二曲を持つてゐることを忘れてはならない。此の人形に限つて二人が遣ふ(一人が頭
前へ 次へ
全46ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング