とされてゐたが、現在では普通人形十五六人、太夫三味線弟子等合して十七人位が一座を組んでゆく。基本的な人形座の組織は最少限度八人とされてゐる。「淡路國名所圖會」には「凡其座元といふ者二十軒餘もあるよし。」とあるが目下淡路に現存する人形座は三條の上村源之丞、志筑町の淡路源之丞、鮎原村の小林六太夫、市の市村六之丞の四つ、約六十人位の遣ひ手がある。この外伊豫と阿波とに小さな座が出來て居ると云ふ。明治以前には三條だけでも住民七八十戸が全部人形操を業としてゐたが、操の衰微と共に次第に農業その他に轉じてしまつた。一番古い家柄の上村源之丞が既に徳島へ移つて寄席興行主になつてゐるのを見てもそれは想像に難くない。人形細工人の方は元來主として徳島が本場で、時たま淡路にも出來るが之れは專業ではなく、農業の片手間仕事であるから自然その技術も優れたものはなかつた。
 現在淡路人形操の巡業先はそれぞれ固定した地盤とも見るべきものがあつて、各自その地域を守つてゐる。例へば全體的に見れば、彼等の巡業地は九州・四國・中國・近畿等可なり廣汎に渡つてゐるが、そのうち四國でも土佐だけは操に頗る縁が薄く、彼等は餘り這入つてゆかな
前へ 次へ
全46ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング