病者の部落があつて、彼等は平常市中に交通することを禁ぜられてゐたが、ただ一年に一度正月二日に限つて市内にもの乞ひに出ることを許されてゐた。そこでこの日彼等は笠に黒布子の切れを垂れて顏を包み、町家の軒毎に立つて「ものよし」と稱へながら施物を求めて歩いたのだと云ふ。天刑病者と遊女とが隣接して居住したこと(現在の宮川町遊廓は五條近くまで延びてゐるが、古くは四條附近に限られてゐたのではなからうか)、天刑病者の物乞ひも遊藝人の物乞ひも大して差別がなかつたこと、之れ等は何れも日本民族が土地に依つて自ら食したおほみたから農民をのみ尊んだ結果であると考へられるのである。
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附記。本稿終了後木谷蓬吟氏の「文樂今昔譚」に文樂座創設の事が出てゐるのに氣づいた。それに依ると、淡路の假屋から植村文樂軒(本姓は柾木)と云ふ人が現れて、高津橋(今の高津四番地)南詰西の濱側で人形淨瑠璃を興行した、これが文樂座創始で、時代は明和とも天明とも云ふが確かでないとある。何れにしても竹本座創設より百餘年後であつて、これは私の考へと同時に淡路操座元の人々の話をも大體に於て裏書して居る。

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