在の操から見れば凡て比較にならぬ程原始的なものであつたに違ひない。近松と義太夫とが現はれて人形操にも一期を劃した。それは明かに急角度の轉回であつて、その後數年若しくは十數年にして人形操の方法《メトオド》は略※[#二の字点、1−2−22]完成したと云つていいのである。それ以後は技術上の細部の發達に過ぎない。
處がこの義太夫節淨瑠璃が如何にして淡路へ這入つて來たかと云ふと、これは大阪から直接にではなく、反對に阿波徳島方面から來たものらしい。何故なら第一に淡路では義太夫節のことを阿波淨瑠璃と云つてゐる。第二に淡路に於てこの淨瑠璃の最も盛んな土地は福良であり、近松の「國性爺」の如き古曲の大物は、洲本その他では既に語り得る人がなくなつてゐるのに、福良にはそれが尚立派に殘つてゐる、などのことを考へ合はすれば、私はさう云ふ結論に達せざるを得ないのである。福良は僅に鳴門海峽を隔てて阿波と隣接してゐる。阿波と義太夫との關係の密接であつたことは云ふまでもないが、これは阿波徳島の如き大藩の持つ文化圈の強大な力は、淡路の小藩を飛び越えて直接に京阪の文化中心と接觸を保ち、その影響を受けることが遙に迅速で且つ深
前へ
次へ
全46ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング