述の如く上村源之丞座に鷹匠殿御用とした人足帳のあることである。喜田博士の「散所法師考」(「民族と歴史」第四卷第三號第四號)に依つても明かなやうに、平安朝頃から既に散所若しくは散所法師の名に依つて東寺・延暦寺等の大寺や近衞家その他の豪族に隷屬する下賤の奴僕があつて、掃除土工等の人足の用に應じてゐたことが記録されてゐる。源之丞座にある鷹匠家の人足帳と云ふのは彼等が矢張り同家に隷屬してゐることを示し、後代既に人足の用は足さず、人形操のやうな遊藝を專業とするやうになつても部族の傳統を墨守して人足帳を保持すると同時に、一方に於てはその遊藝興行の免許状や定紋提灯の使用なぞの特權に依つて種々の利益を得てゐたのである。
七、結語(遊藝民蔑視の問題)
私のこの蕪雜な論考に結論を與へる時は未だ當分來さうにない。私は唯久しい宿願であつた淡路人形座の地元を踏査した因縁に依つて、操に對して平素考へてゐたことを整理する力もなく、雜然と書き並べたに過ぎぬ。多くの問題は實はこれから後に殘されてゐるのである。そしてそれ等の解決に當るには今私は全く非力であることを告白する他はない。
然し尚一つ私の念頭を離れぬ事柄がある。それはなぜ人形操の人々が古來下賤階級として卑しめられ、特殊部落扱ひをされたかと云ふ疑問である。それは人形を取扱つたからであらうか。淡路の古老の云ふやうに人形が殉死に代るけがれたものとする思想からすれば、或はそれを首肯し得るかも知れない。然し人形と全然關係のない萬歳・ササラ・鉢たたき・春駒等の人々も同じやうに下賤の者と見られてゐるのを考へれば必らずしも人形のみがその原因とは信じ難い。そんなら彼等は産所(若しくは算所、散所)と云ふ部族に屬してゐるが爲であらうか。如何にも産所は一面に於て諸大寺諸豪族に隷屬した奴僕であつたから卑しめられる理由にもなつたであらう。けれどもそれ等と成立ちを異にしてゐる俳優が矢張り河原者の名稱のもとに蔑視されてゐたのを知れば、あながちに産所であるが故にのみ下賤扱ひにされたとは受取れない。
所詮我々はこの問題の爲にも少し根本的な方面まで溯らなければならないであらう。ヨオリックの名著「傀儡史」に就いて見ても、デュシャルトルの大著「伊太利喜劇史」或はランティラックの「中世期正劇史」に就いて見ても、將亦私の知る限りの「希臘悲劇史」に就いて見ても、
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