賑《にぎはへ》る也。此の市立《いちたて》には禳災《やくはらひ》と稱し、餅を賣るもの多し。厄年の者これを求めて身體を撫で爾後これを小※[#「くさかんむり/大/巳」、174−14]《つじ》に捨つるを風《ならひ》とす云々。」とある。これは夷神の除禍招福の思想が岐《くなど》神・道祖神の信仰と結びついたものと思はれるが、市場の舊趾に就いては同書に、「戎社の西傍にあり。」と出てゐる。之等の記事を見れば最早寸毫も疑ふ餘地はない。市村字三條の附近は淡路全國の市場で、恐らく上古物資集散の中心地となり、物々交換の爲の大きな市が立つた處であらうと思はれる。尚また名所圖會は廣田村中條の蛭子社に就いて、「里人云、當社は古は頗る大社にして莊嚴なりしかども、天正中回祿にかかりてより今の如く僅の小社となれり。此地名を市場といふ。按に古此所において市を立てしなるべしとぞ。」と云つてゐるから、市村に中心の大市があり、各村にはまたそれぞれ小市が設けられたことが之れに依つても察せられる。
 西宮の傀儡がどうして淡路の産所に定住したか、と云ふ疑問を私はここでもう一度取りあげよう。それは淡路の代表的な市がここにあつた。そして市には夷三郎神の信仰が附隨してゐた。とすれば明石海峽一つを隔てた西宮産所の傀儡子が、この地を目ざして移住して來るのは決して不思議ではないであらう。否彼等の部族の増殖膨脹に伴ふ必然の結果として、その勢力擴大の必要から彼等は自分の部族を各方面に移動せしめる爲に出來得る限り、斯樣な因縁をたどつて行つたのであらう。それが文化の移動ともなり、信仰の傳播ともなり、特殊な習俗の分布ともなるのである。
 市村字三條の人形操が事實に於てさう云ふ特殊な部族に屬してゐた事を證明する説話は幾つも殘つてゐる。例へば彼等は明治中期頃まで地方巡業に際して彼等特有の旅箪子にあらゆる生活の必要品を收めて持ち歩いた。長火鉢から鐵瓶・茶碗の類は勿論、或る太夫の如きは火鉢に用ゐる藁灰まで袋に入れて旅に出たと云はれてゐる。彼等の仲間では之れを盛榮を極めた頃の操座の豪奢を示すものとして誇を感じてゐるらしい。が然しそれこそ彼等が特殊部族として一般民衆から差別的な待遇を受けたことを示すものでなくてなんであらう。産婦をけがれとして別火せしめた同じ思想が、執拗に産所の民をして火鉢の灰まで旅に持廻らせたのである。
 尚一つ見逃がせないものは前
前へ 次へ
全23ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング