張り後代の習合であつて、兩部神道では八幡大菩薩と呼ばれ、必らずしも最初から左樣に信じられてゐたのではないことを示してゐる。八幡大神の最も代表的な九州の宇佐八幡も最初は地方的な神であるに過ぎなかつた(萩野由之博士)。それが聖武天皇の東大寺大佛御造營に當つて、この八幡の神助を乞はれ、東大寺鎭守として勸請されたので、これ以來始めて宇佐八幡と中央文化圈との關係が生じたのである。然るに柳田國男氏が炭燒長者傳説を闡明して炭燒小五郎の物語の起原が宇佐八幡の最も古い神話であるとされた處から(「海南小記」)土田杏村氏は、宇佐八幡を聖武天皇が勸請されたのは大佛造營に必要な金及び銅を得んが爲めであつたとしてそれを柳田氏の説に結びつけて、宇佐八幡は採鑛冶金の民の神であると考へた(「上代の歌謠」)。之れは誠に興味深い着眼點であると思ふ。
然しながら茲で更に今一つ考へなくてはならぬことは夷三郎神が海に關係があつたやうに八幡神も矢張り海に關係があると云ふ點である。その著しい例は宇佐八幡の細男《セイノウ》で、之れは筑紫の風俗歌舞らしい(小寺融吉氏)が、その起原に就いて、太平記卷三十九に記された俗傳に依ると、神功皇后が三韓征伐の參謀會議に當つてあらゆる天神地祇を招かれた時、大小の神々は常陸の鹿島に集つたが、ひとり海底に住む阿度部の磯良が召に應じない。これは永く水中の魚類に伍して貝殼や藻や蟲類が手足に取りついてゐる己れの醜さを耻ぢたからである。そこで神々は樂を奏して誘うた處、磯良は遂に感にたへて現はれ來り、やがて干滿の珠を龍宮へ借りに行つて皇軍の勝利をはかつたと云ふのである。そして豐前の志賀島の志賀明神は此の磯良を祀つて居り、この地元の傳説では右の神遊は鹿島でなくて、この志賀の濱邊であり、程遠くない合屋村の鼓打權現や笛吹權現は即ちその神遊びに鼓を打ち笛を吹いた神を祀つたのだと云つてゐる(小寺氏「近代舞踊史論」)。海神が干滿の珠を神功皇后に獻じたと云ふ傳説は廣く分布されて居り、京都の祇園祭に出る船鉾はこの物語を人形を以て表はしてゐる點で有名である。そしてこの細男と云ふ歌舞が宇佐八幡と密接な關係があることは我々に多くの暗示を與へるが、更に重要なのはこの歌舞が人間の所演のみではなく、人形を以て演ずることが主體となつてゐるらしい點で、傀儡子の發生を考へる際には實に見逃し難いものである。濱田青陵博士の「古表八
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