幡の傀儡子」に依れば、豐前古表八幡社の末社四十體神社に三十六體の古朴な傀儡がある。(古くは四十體あつた。)これは宇佐八幡の放生會の時船に乘せて持つて行つて細男の舞を演じたものである。作は鎌倉初期と考へられてゐる。尚山城離宮八幡にも細男と稱して祭に用ゐる二個の大傀儡が收藏されてゐるとある。細男と八幡との關係が密接であることはこれで明かであり、それが海上で演ずると云ふことは傳説が教へる通り八幡神が海から來た、若しくは海と關係の深いことを示してゐる。想ふに筑紫を中心にした北部九州に一つの文化圈を形造つてゐた部族は、朝鮮海峽から渤海灣、東支那海一帶に渉つて海上に勢力を振つてゐたのではなからうか。この爲めに神功皇后は朝鮮半島へ渡海さるるに際して彼等の勢力を利用されたのであると考へられぬだらうか。
 八幡神は此の部族の神である。夷三郎もまたその附屬神或は眷屬神の一つである。西宮廣田神社の祭神が天照大神即ち大日靈尊のに荒魂であると云ふ説(「日本記」)も明かに學人の後作説であつて、寧ろ神功皇后とも八幡同體とも云ふとした俗傳(「二十二社本縁」)の方が眞相に近い。地元の舊傳に依れば廣田神社は神功皇后三韓征伐の舊陣に兵庫の港へ船を寄せられた時、現はれて皇軍を迎へ奉つた神を祀つたものであるとして居る。更に「石清水宮寺縁事抄」(喜田貞吉博士「夷三郎考」引)には「攝津國武庫山ハ神功皇后異國ヲ討給時、三萬八千荒神ノ武兵ヲ置給山也。仍稱[#二]武庫山[#一]。其三萬八千荒神ハ御[#二]座西宮[#一]。」と云つてゐる。これ等のことは何を語るか。神功皇后が制海權を握つてゐたらしい北九州の部族の協力を求められたこと、八幡神はこの部族の神であり、この部族の功を賞してその祖《おほおや》を祀られた廣田神社が八幡同體であること、夷三郎はこの八幡の眷族であり、部屬の民を象徴してゐるらしいこと等である。
 然らばこの八幡を神としてゐた部族は如何なる民であつたかと云ふことは本論の根本であるけれども之れは容易に決し難い。ただ茲に一つの手がかりとなると思はれるのは北九州臼杵地方の磨崖石佛群の存在である。京大の小川琢治博士はこれを逸早く研究調査されたが、その談に依ると、そのうちの不動明王像で普通の法繩の代りに蛇を持つてゐるのがある。然もその蛇は一般の蛇でなく印度産の毒蛇コブラを思はせる程頭の大きい蛇形を示してゐる。即ちこれ
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