求めたか。――此の疑問を解かうとした時私は當然夷三郎神にぶつかることになつた。抑※[#二の字点、1−2−22]夷三郎神とは何であらう。喜田博士の「夷三郎考」(「民族と歴史」福神研究號)に依ればこれは夷神と三郎神との複合されたものであり、古くは之れが別個の存在で、夷は大國主命に、三郎は事代主神に比すべきであるとされた。俗傳に依つても夷三郎が事代主神であることは三條の百太夫合祀の夷神社の例に依つても明かであるが、一方には之れを諾册二神の御子|蛭子《ひるこ》であるとする考も相當に廣く深いものがある。殊に蛭子と書いて「エビス」と讀ませてゐる程それは一般化してゐる。然しながら之等は凡て後人の思想を以て祭神を凡て古事記神代卷に現はれる神々にあてはめようとする結果出て來た説であつて、本來の夷、乃至夷三郎神なるものの信仰の對象なり、それに含まれてゐる宗教思想なりは、決して左樣なものではなかつたに違ひない。例へば當時の俗傳を最も忠實に蒐集したと見るべき「源平盛衰記」劍卷に、「蛭子は三年足立たぬ尊にておはしければ、天石※[#「木+豫」、第4水準2−15−77]樟船に乘せ奉り、大海が原に押し出して流され給ひしが、攝津の國に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顯れ給うて、西の宮におはします。」とあるが、茲で重要なのは實はこの夷三郎が海を領する神と云ふ點だけであつて、それが蛭子でも事代主命でも大差はない。何れも後人が説明の爲に設けた想定神に過ぎない。何故なら夷と云ふ言葉は明かに他民族を意味するものであつて、それが大和民族固有の神でないことは論を要しない。從つて之れを神代卷の神々に當てはめるのは正しい意義を忘れてしまつた後代の人々の假托であることも云ふまでもあるまい。即ち夷三郎は大和民族以外の異種族の神であり、彼が海を領する神であるが故にこの信仰を持つた民族は海に關係の深い種族であつたに違ひないと考へられるのである。

         五、八幡神と夷三郎神

 日本へ夷三郎神を持つて來た民族の本體を考へる前に今一つ闡明を要する問題がある。それは夷三郎と殆ど必然的に不離の關係を持つてゐる八幡神の信仰である。恐らく八幡神程日本全國にあまねく行き渡つて、どんな寒村僻地にもその鎭座の社を見ぬ處はない程に一般化されてゐながら、その本體の不可解な神は他にない。八幡宮の祭神を應神天皇とする如きは矢
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