それも近親ではなくて、近隣の人々に結んで貰ふ土俗があるのは、この産所の緒紡ぎと何等かの關係があつたことを暗示するものではなからうか。さうとすれば彼等はこの他村のやらぬ緒紡ぎを生業として、その傍、人形も舞はした。そこへ百太夫が現はれて最も進んだ西宮の操の方法《メトオド》と技術《テクニック》とを傳へて、彼等の人形舞はしに革命を與へた。そして淡路人形操の元祖となつた。とこんな風に解釋することが出來さうである。何れにしても淡路の人形が西宮に本源《オリヂン》を持つものであることは殆ど疑ひを容れない。
 百太夫定着の年代は元より明かでないが大體に於て鎌倉末期よりは下るまいと思ふ。そしてこの頃以後の人形がどの程度のものであり、どう云ふ經路に依つて發達したかと云ふことも到底適確には知る由もないが、操の各座元にはそれぞれ綸旨の寫しと、櫓の免許状と云ふものを持つてゐる。それ等の文書に記されてある年號もまた元よりそのまま肯定することは出來ないにしても元龜年間京師に上り、禁裡に於ける三社の神樂の際に召されて操を演じたと云ふことは大體信じていいことであらう。此時帝の御感に入つて從四位を賜つて居る。それから別に鷹司家御用の人足帳と云ふものが上村源之丞の座元にある。即ち鷹司家の人足として隷屬してゐると同時にその元締に當る座元には名字帶刀を免ぜられ鷹司家の定紋提灯を用ゐることを許されたのである。地方巡業の際この定紋提灯があると、源之丞座の興行地點を中心にその一里四方以内に於ては凡ての興行物は停止され、川越えの際には何人よりも先きに渡ることなどの特權が與へられて、中央政府なり貴族階級なりから特別の保護と獎勵とを加へられてゐたのであるから、彼等人形操の位置と技術とは當時の文化の中心から相當に認められてゐたと考へられると同時に、それだけ彼等の技術が進んだものであつたと云ふことも信じられる。
 然しながら、彼等の演出した曲目は「夷舞はし」と「三番叟」とが主體で、その後諸國巡業中京師やその他の文化の中心に觸れるに從つて次第に彼等の技術は展開し、新しい演出の方法《メトオド》と演出曲目《レパルトワル》とを發見し、添加して行つたであらう。例へば平曲から出た説教節や幸若舞曲風の要素が取入れられて、單純な物語の多少劇化したものをテキストに作りあげて、之れに依つて徐々に複雜な演出を試みたのであらうと思はれる。がこれを現
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