在の操から見れば凡て比較にならぬ程原始的なものであつたに違ひない。近松と義太夫とが現はれて人形操にも一期を劃した。それは明かに急角度の轉回であつて、その後數年若しくは十數年にして人形操の方法《メトオド》は略※[#二の字点、1−2−22]完成したと云つていいのである。それ以後は技術上の細部の發達に過ぎない。
處がこの義太夫節淨瑠璃が如何にして淡路へ這入つて來たかと云ふと、これは大阪から直接にではなく、反對に阿波徳島方面から來たものらしい。何故なら第一に淡路では義太夫節のことを阿波淨瑠璃と云つてゐる。第二に淡路に於てこの淨瑠璃の最も盛んな土地は福良であり、近松の「國性爺」の如き古曲の大物は、洲本その他では既に語り得る人がなくなつてゐるのに、福良にはそれが尚立派に殘つてゐる、などのことを考へ合はすれば、私はさう云ふ結論に達せざるを得ないのである。福良は僅に鳴門海峽を隔てて阿波と隣接してゐる。阿波と義太夫との關係の密接であつたことは云ふまでもないが、これは阿波徳島の如き大藩の持つ文化圈の強大な力は、淡路の小藩を飛び越えて直接に京阪の文化中心と接觸を保ち、その影響を受けることが遙に迅速で且つ深かつたに違ひない。そこで義太夫節は先づ徳島に入り、更に之れが阿波淨瑠璃となつて福良に渡り、漸次洲本・由良・岩屋と淡路全島にひろがつたのではなからうか。そしてこの阿波淨瑠璃は福良・洲本の中間にある市村字三條に於て人形操と結合することに依つて當然其本源の竹本座の人形操をも移入する事になり、茲に淡路の人形淨瑠璃が誕生した譯であらうと考へられる。尚淡路と大阪文樂座との關係は、地元では淡路から文樂座が生れたと信じてゐる。即ち文樂座は文樂翁の創設にかかるものであり、文樂翁と云ふのは淡路假屋の人であると云ふ。私は尚この點を明かにする暇がないが、假令これが全部事實であるとしてもそれは阿波淨瑠璃渡來後、遙に後のことであるに違ひない。即ち淡路の人形操は大阪に於ける竹本座豐竹座の操發達後は多く之れの影響を受けつつ今日の状態にまで發達したものと信ぜられるのである。
かやうに見て來ると淡路の人形操座は先づ西宮の夷舞はしに依つて第一期の原始的生長を行ひ、次いで大阪の義太夫淨瑠璃に依つて第二期の大成的發達を遂げて、茲に完成を告げたものと推斷することが出來る。
四、人形源流考
人形の起源に就
前へ
次へ
全23ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング