なく操って見せたものに違いない。それが稍々発達して小屋掛興行になった時、使い手の見えることを不合理として彼は幕張りの陰にかくれ、人形だけを見せるようにして使ったらしい。然るに一層之れが進歩して義太夫節と結合する時代には左様な合理性を超越してしまって、使い手が堂々と姿を舞台に現わして来た。この原因はどこにあるか。それは人形が明かに独立した世界を確然と持っていて、そこに人間の存在があると否とに毫も関らない程力強い存在性を、彼自身示すようになったからであろうと信ぜられるのである。
*
人形は人間以上である。人形は人間の存在に依って少しも自らの存在を危くされない。即ち人形の世界は完成し切った世界であって、永久に未完成な人間の這入ることを許さない。
人形の美はそれ自身完全な美である。それは何にも侵かされず、また害われない。不完全で醜い人間はそこから絶対に閉め出されて居る。
我々は人形芝居を見る時、人形使いが人形を使っていると考えるでもあろう。然し実際は人形は自分自身の世界に於て自由に動き、自由に生活している。反って人間が使われているとも云うことが出来る。
人形は唯人形自身の
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