歩を占めた。加之、直ちにこれの追従者と模倣者とが現れたのを見ても影響の大きさを想像することが出来る。勿論その座席の大部分を満たしたのは大人であって、私達も子供達と同じように喜んで之れを亨楽したのである。
 そこに大人も子供も差別はなかった。畢竟大人も絶対の世界では子供に過ぎないのであり、子供も真理の世界では大人と全く同一だからである。

     *

 唯茲に注意しなくてはならぬ相違点がある。それは欧羅巴の人形芝居は常に使い手が陰にかくれて見えないのに、日本ではあからさまにそれが舞台に現れる点である。文楽は元より結城の糸操りでも使い手が天井の上にいて観客に姿を見せる。之れは人形の芝居と云う点から見れば舞台に人間の見えぬ方が合理的であり、見えるのは非合理的である。
 然しながら芸術は必らずしも合理的なものが進歩したものでなく、反対に非合理的なものの方が遥により高い位置にいることがある。何故なら元来芸術の世界が非合理的な世界であり、否既に創作それ自身が実は非合理的なものだからである。
 我が日本に於ける人形芝居の歴史を辿って見ると、最初は無論使い手が路傍で衆人を前にして、背景も道具立てもなく操って見せたものに違いない。それが稍々発達して小屋掛興行になった時、使い手の見えることを不合理として彼は幕張りの陰にかくれ、人形だけを見せるようにして使ったらしい。然るに一層之れが進歩して義太夫節と結合する時代には左様な合理性を超越してしまって、使い手が堂々と姿を舞台に現わして来た。この原因はどこにあるか。それは人形が明かに独立した世界を確然と持っていて、そこに人間の存在があると否とに毫も関らない程力強い存在性を、彼自身示すようになったからであろうと信ぜられるのである。

     *

 人形は人間以上である。人形は人間の存在に依って少しも自らの存在を危くされない。即ち人形の世界は完成し切った世界であって、永久に未完成な人間の這入ることを許さない。
 人形の美はそれ自身完全な美である。それは何にも侵かされず、また害われない。不完全で醜い人間はそこから絶対に閉め出されて居る。
 我々は人形芝居を見る時、人形使いが人形を使っていると考えるでもあろう。然し実際は人形は自分自身の世界に於て自由に動き、自由に生活している。反って人間が使われているとも云うことが出来る。
 人形は唯人形自身の
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