れたのが持腐れとなって居るからである
著者は去る八月中、東京帝国大学の御用出張という格で、明治時代の古新聞古雑誌を買集めのため、信越より東北の各市を巡ったが、到る所の古本屋は、皆右の持腐れにアグネて居た、新潟市の某店、弘前市の某店、盛岡市の某店などは、いずれも当分円本の古本は買わない事にして居りますと語った、著者は円本の状況視察として、何処へ行っても同じ問を発したのであるが、秋田市の某店では、不況の泣言などはならべず、ずらりと配列した円本棚のを指して「何しろ、アノ通りで少しも動かないのですからネー」と云って、大口を開けたままあとの語を発しなかった
そして一方、読者界の者が何故買わないかという問題、これは円本宣伝の大袈裟に釣られて、本というものは、親が買って呉れた小学の教科書を持っただけで、外の本は買った事もない連中までが、予約者に加わったのであるから、売る者はあっても買う者がないのである、少し気の利いた人々は、最初から円本に取り合わず、ヤスイ売り物があっても「ザマ見ロ」とばかりに冷眼視するだけで、買わないからである
残本屋の揃い物が少し売れたのは、何にしろ実価の安いものだから(一円本が二十銭)、寝かして置いても店の飾りに成り、或はイツカ風来の客に揃い物として高売りのできる事もあろうかと、小い古本屋共がアテなしに買ったからである
近頃新たに出た円本もヤハリ同じ運命に陥ってツブシの原料に成るであろう
萌出るも枯るるも同じ野辺の草
いずれか秋にあわで果るべき
ハヤリ物にロクなものなし
「流行物にロクなものなし」とはよくも云った古諺である、明治時代の蘭や万年青《おもと》、兎や狆、往年の鶉など、数十円数百円に売買されたものが、今はドーであるか、近くは小鳥飼の流行を見たであろう、一羽七十円のセキセイが今は一銭、二三十円の十姉妹が五厘という下落相場、それも買人《かいて》なし貰人《もらいて》もなしで、山に放ち野に放ちであるそうな、先日大阪から飛行機に乗って上京した柳屋主人の談が面白い
「小鳥はタダでやると云っても餌代がかかるので貰人がない、殺して焼鳥にしてもウマクない、そこで鳥箱の入口を開て、飛出し飛入り勝手次第という事にして置くと、朝出た二羽の十姉妹が夕方に五六羽のナカマを連れて来て同じ鳥屋で眠り、翌朝は其七八羽が飛出して夕方に十羽以上で帰って来るそうです、放たれて籠まで安売り
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