夕方の空を
百羽ばかりの雁が
一列になつて飛んで行く
天も地も動か無い靜かな景色の中を、不思議に默つて
同じ樣に一つ一つセツセと羽を動かして
黒い列をつくつて
靜かに音も立てずに横切つてゆく
側へ行つたら翅の音が騷がしいのだらう
息切れがして疲れて居るのもあるのだらう。
だが地上にはそれは聞えない
彼等は皆んなが默つて、心でいたはり合ひ助け合つて飛んでゆく。
前のものが後になり、後ろの者が前になり
心が心を助けて、セツセセツセと
勇ましく飛んで行く。
その中には親子もあらう、兄弟※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、44−下−1]妹も友人もあるにちがひない
この空氣も柔いで靜かな風のない夕方の空を選んで、
一團になつて飛んで行く
暖い一團の心よ。
天も地も動かない靜かさの中を汝許りが動いてゆく
默つてすてきな早さで
見て居る内に通り過ぎてしまふ
[#地から1字上げ](一九一八、三、一一夕)
[#地から1字上げ](以下三篇、白樺所載)
景色
妻は小供を連れて夕方の買物に出掛けた
今自分の家は實に靜かだ。
自分は裏の空地を見てゐる
景色は澄み切つて動かない
然しそこには目に見え無い活動がある
空地の隅に並んだ木々の逞しい幹が、
一本一本地面から跳り出してゐる
目に見えない運動がどこからか續いてゐる
地中から空中へ日に日に春らしくなる空氣の中で木は調和して來る。
逞しい幹が柔げられてうねりを見せて跳り上るやうに
白い手を地上からのばして傾いてゐる
上の方へ行くと空中で外の木の枝と枝とがしなやかに交つてゐる。
その間に交つて冬から殘つた青葉が
冬の間は忘られてゐたのに、目に立つて生きて來る。
然し
垣根の向ふの、
うしろ向きの家の
黒い屋根の上には無雜作に落葉が散らばつてゐる
その上に未だ凍り易い天空の寂寞の色
月でも出相だ
地面は底知れない靜かさでひろがり
その上を白犬が
鼻を地面にくつつけて
あつち、こつちへよろけ乍ら忙し相に
食を求めてすばしこく走つて行く
[#地から1字上げ](三月五日)
初春の日
今日は春のやうに暖い
裏の空地で雀が一杯囀つて居る
姿は一羽も見え無い
見て無くても歌だけ聞える
自分はぢつとしてゐられ無いで外へ飛び出す
往來は賑やかだ。
燃える樣な空氣が流れる
大變な人出だ
この混亂の中で
自分は孤獨をうち捨てる
この混亂の中で人は熱情を露骨にする
女も男も急がしくその用に追はれて歩いて居る
自分もこの混亂の美に加る。
この人波に飛び込むとわけも無く歩いて行ける
自ら足がどこかへ向く
不思議なやうに道が誘つてくれる。
道を横切る者、混雜をよけて道端を行く者
後ろ向きの人、前向きの人
眞直ぐに歩いて來る近き、遠き男女の顏々
この雜沓の中で
馬子は荷馬車を道の隅に待たして知り人の家の前で話して居る。
ゴタ/\通る百姓が荷馬車にけんつくを食はして行く
馬は前足を二本合はして縛られた綱を
無器用にゆるめ解かうとして居る。
氣のついた馬子は食はへ煙管で呑氣に道を横切つて行つて、
しつかり結へ直し、又話の續きをやりに歸つて行く。
馬は知らん顏して遠くの方を見てゐる
乘合馬車も通る。滿員だ。
二匹の馬は互に鼻づらを合はせつこして
歩きづら相に鞭でたゝかれて走つて行く。
馬車が通り過ぎるとその間立止つて居た人が澤山
馬車の蔭からゾロ/\現はれて歩き出す、
驚いた羊の樣に小走りに走り出るのは女だ。
皆んな馬車に乘らないで板橋の方から東京へ行く百姓の家族だ。
この暖いのにやたらに着込んで尻をはしよつて居る
首をあげて悠々と歩いてゆく
このゴタ/\した往來を美しい女が通る
燃える樣に美くしい、皆んなの眼がそこへ集る。
美くしい女は平氣で雜沓の中を自由自在に通る
女の通つてしまつた向ふに草原が見える。
白い雲が遠くの空に浮んで輝いて居る
原の片隅には人の屋敷の垣根がつゞき、
青い木が茂つてゐる
日の光りがそこではもう夏らしい
冬中殘つた木の葉が青々として、
日に日に柔かになつて來る空氣に調和して居る。
往來には蔭を選んで肥桶車が休んでゐる
若い百姓が片足を折つて其の上に梶棒を休ませて
手拭で顏を拭いてゐる
日の光りが降りかゝつて眠つてゐる樣だ。
四邊が急に靜かになる
どこか遠くで雀が一羽鳴いてゐる
向ふの原の隅を小供が三四人連れ立つて
道草を食つて歩いてゐる
時々笑ふ聲が空氣を驚かす
春だ、春だ。
ぬくめられた空氣が際限もない空から
太陽の周りからどん/\湯のやうに微妙に注いで來る
自分は抵抗する事が出來ない力を身の内に感じる
頭がボンヤリして心が切れ/″\にいろ/\の事を思ひ出す
永くはつゞかない。現はれては消える
どん/\空氣と一緒に流れて行く
一人でセツセと歩いてゆく
誰も見てもしないのに元氣づいてます/\歩く
うしろから何かに押されてゐるやうだ。
ひろい何も生えて居ない畠に出た。
一寸先きへ行くのが淋しい氣がする。
廣い景色が眼に集つて來て
空と大地が自分の體に打ちつけて來て響く
歩き出すと平氣になる
空氣がこゝでは猛烈だ。
偶然大きな男が
向ふ側を一人通るのが目につく
早足でやつて來て大股を踏んで
自分が見ると氣合がかゝつた樣に
その形のまゝ動かない運動が凝固つたやうに
彼は惱んでゐる。大地と格鬪してゐる
地面から足を引き離さうとしてもがいてゐる。
まるで大地から躍り出したやうだ
空中から湧き出したやうだ。
一瞬間さうして動かずに
自分の心が外へ移るともう消えてしまつてゐる
そのあとに穴が明いて空氣が目に見えて濃厚に動いてゐる
まるで温室の中を歩いてゐるやうだ。
自分は羽織をぬいで肩にかけたり、
足袋をぬいで袂に入れてもつと先へ歩いて行く。
景色と一緒にどこまでも歩いて行く
日は未だ永いのだ。
田舍へ田舍へと行く、一人で、
板橋のはづれまで來た。
まるで世界が變つて來る。
道が目に立つてキレイだ。白い
兩側の家が低いので空がよく往來に映るのだ。
小川がある。橋を渡つて右へ曲る
埋立てられた樣な田圃と小川の向ふは
小山になり所まだらに低い木が生えてゐる。
小川の水はキレイだ。
瀬戸物のカケラが手にとりたいやうに沈んでゐる。
鷄が馴れてゐると見えて、
一間餘りのその小川をバタ/\と飛んで向ふ岸へ移る。
自分も眞似をして山をのぼつてゆく
一面に貧民窟だ。
腹の減つたやうな亂髮の小供が澤山居て大人が見えない。
山賊の巣窟にでも來たやうな氣がする
たまに居てもこのいゝ天氣に家の中にゐる。大概の家が留守だ。
どこへ行つてゐるのかと思ふ。
家の周りにはどこでも荒繩でおしめやぼろを乾してある。
何を食つて生きてゐるのかと思ふ
どん/\通りぬける
畠の方へ行く。畠の向ふには薄い青空が輝いてゐる。
涯の無いそこから奇妙な無言の歌が響いて來る
畠の中にはぽつぽつ杉が立つてゐる。
聖い感のする恰好だ。
景色の中で懷しさが湧く
ところ/″\に百姓が働いてゐる。
眞面目に働いてゐる
どこからか人が澤山で合唱する聲が聞える
その方へ歩いて行く。
淋しい廣い天空と畠の中で
小學校の教室から聞えるのだ。
淋しい沈默した自然に向つて
叫ぶ人間の聲だ。
自然は默つて聞いてゐる
そこらが急に淋しくなる
くねつた桑の木の行列も淋しさうに生えてゐる
空は色褪せて灰色に見えて來る
自分も疲れて來る
こゝらは景色がひろすぎる
街の方へ引返へす
[#地から1字上げ](一九一八、三、一九)
小景
爽やかな夕方の往來で
自分は都會から歸つて來る勞働者を迎へる
二人づゝ、或は一人づゝ
長い一本道を歩いて來る。
町の眞中をやつて來る
その輕々しい歩みぶりよ、
彼等は黒いはんてんに股引、足袋はだしで
身も輕く身分も輕く
夕闇の中を涼しく歸つて來る
何か友達と並んで話し乍ら、
道の兩側の古着屋や道路より低い時計屋等に
自由に目をくれ乍ら靜かに歩いて來る。
苦るしみのうしろにある深い喜びを
本當によく解して味つて居るやうに
本當に自由な時間と云ふものを知つてゐる樣に
こゝらはもう全く彼等の領分だ。
大手をふつて歩けるのだ。
夕風の吹いて來る方には妻や小供が待つて居る
夕闇の中で顏は見え無いが自分は彼等を知つて居る
彼等は寛大で柔和である。女も小供も彼等になつく
空には田圃が近いので夜かせぎに圓こい鳥がセツセと飛んで行く
見榮もなく翅の破れたのや
拔けて落ち相な羽をぶらさげてゐるのがあり/\見える
然うして乘合馬車が、
往來の上に水のやうな空氣の中に二つのランプを輝かして走つて行く
何と云ふ慕しさだ。何と云ふ窮屈のない事だ。
[#地から1字上げ](一八、三、一九)
春
春が來た
夜は尚夥しい霜で大地がコチ/\と凍るのに
晝間はもう全く春だ
往來には空氣も人も流れ出した
不思議な一大氣體が日に日に此の世の岸に漂着して來る。
温い湯のやうな空氣が際限も無い空の
はるか遠い、遠い處から
太陽の周りから、自由自在に流れて來る
少しづゝ此世の空氣に微妙に温みを
そゝいでゐるのが目に見えるやうだ。
歩いてゆくと身體に附いてゐた
騷ぎがばつたり靜まつたやうな氣がする
自然の靜かさが萬物を領す
何處までも景色と一緒に歩いて行ける
自由自在に空氣と一緒に流れてゆく。
然うして幾度も、幾度も、
自分の身の内が外の空氣の靜さを感じたり
景色の美しさに魅せられて驚きをくりかへす
その度びに春だと思ふ
雪の日
今暫らく往來は靜かだ。
雪は止んでゐる
人が泥濘を氣をつけ乍ら
ゆつくりと歩いてゐる
向ふからこつちへ來る人の行き惱んだ姿と、
自分の足下をかはり番に見乍ら
前の泥海を越すのに弱つてゐる。
道の上にはあつち、こつちに一杯の人だ
後向きの人や前向きの人が傘の下で横肥りにひろがつて動いてゐる。
小さい小豆色の洋犬が首を前へ垂れて、
後ろ足をぬかるみに引張られて歩きにく相に道を横切つてゆく、
友達を訪ねてさん/″\朝から遊び散らしてくたびれたと云ふ恰好だ。
町の角には傘をさして小供をおんぶした
女が家から出て嬉し相に見てゐる
脊中の小供に顏を横向きにして話してゐる。
人の居無いところは靜かで不氣味だ。
空は何か含んだ樣にうす暗い
然し往來は面白い、
通る人々は普段見られ無い情熱が透いて見える
日暮れになると町の樣子が變つて來る
雪は盛んに降つて來る
空氣が冷たくなり、濃くなつて來る
眼に見える樣に光つて往來を流れ出す
その中を人通りが盛んになる。
町の景色はリズムを生じて來る。
行き交ふ人は寒さと雪に景氣をつけられて興奮して通る
雪は濃厚の空氣の中に
風が無いので一直線に降りて來る
一緒にかたまつて降つたり
一片一片妙にゆつくりと
重たい空氣にのつかつて落ちて來る
顏を目がけて飛んで來て眞直ぐに足下へ落ちて消えてゆく
降つても降つても往來ではぬかるみへ靜かに消えてゆく、
輕く、淡く、重く
鼻の先や眼の先きを
見えたり隱れたりし乍ら人々の行き交ふ中に降つて來る。
往來はます/\ゴタついて混亂の美を呈し
空氣も嬉し相にそこだけ光つて流れる。
人が重り合つて行き來する。
[#地から1字上げ](一九一七、二、二八、太洋の岸邊所載)
鶯
此頃どこか近所に住んで居る鶯が裏の空地へ來ては頻りに啼く
いつもたつた一羽切りで
朝から晝過ぎまで
朝らしい氣持を失はないで
疲れもしないで啼いてゐる。
その聲を聞くといつも感心する
耳を傾けずにはゐられない
時々休んで止めては
間を置いてから落着いてゆつくりと
沈默の中から自ら開けて來る樣に
奧深いところで靜かに啼き初める。
恥しいのでうぶな姿を茂みに潜ませて
聞き手が沈默してゐるのを知つてゐる樣に啼き出す
耳の故かも知れないが
啼き初める時の二言三言は未だ少し下手だ。
然しすぐ調子を張りあげる。
もう誇をもつて啼く、臆した心が消えてゆく
夢中になる。止めるかと思ふと長くつゞけたりする
短いけれど複雜な歌をうたふ
枝の上から身を逆まにして落ちて來る樣に啼いたり間を打つて、
沈んだやうに嘆いた
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