顏を仰いだる弱々しき夫の顏、
二人を見下ろして老いの愛情に輝く父の顏
無心に母の乳に食ひつく赤兒の顏
その暗き茫然として自失したる如き光景を自分は忘れない。
それを思ふ度びに涙が出て來る。
何事のありしかは知らず
されど自分は未だかゝる痛苦に迫つた顏を見し事なし
かゝる暗き光景を見し事なし

  子供の首

何か子供の首を包んで居る。
うしろから見ると
枕ずれのしたちゞれ毛が
美くしい白い肉を包んで居る
草が地面に生えるやうに
白い肉もそこで育つのだ。
子供も一緒に
美くしい髮もそこで育つのだ。
地球と一緒に、

  或夜

父の家を出づれば
夜は悲し
代々木の原の上に
涯しなく高く闇は佇み、落ちかゝり
星の光りも僅かに力無し

土手の上の線路の側を
人は徘徊し
悲しく犬の遠吠は聞え
使に出された小き女中が
土手の下の闇をすれちがひ走りぬ
白き犬と共に、

  散歩する人

巣鴨の奧の片田舍
日かげ照り添ふ畑道を
用も無い身の
冬仕度せる人、散歩せり
その一人々々は異樣なり
近づくのが恐いやう
年代を經し無慘なる印象
その身を包む外套のかげより現はれたり
その顏の立派さ、恐ろしさ。

  乳

母親の乳の張つて痛んで來る時
小供の腹は餓ゑて來る。
與ふる者と與へられる者は、
一つとなつてしつかりときつく抱き合ふ。
乳はひとりでに滿ち溢れ出る
赤ん坊はむせかへつて怒る、
母親はどうする事も出來ないで氣を揉むが、乳は出過ぎる。
遠慮なく響いて出る
充ち滿ちて出過ぎる苦しさ。
與ふる者の苦るしさ。
赤ん坊は母親と苦るしんだ上句、
自然に響いて來るのをごくり/\と呑む。

  人形

赤ん坊は淋しい、
何となく淋しい
未だ口もきけないで、僅かに聲を立てゝゐる赤ん坊は淋しい
居るか居ないのか解らないやうにおとなしいから。
眼をつむつたり、開いたり
泣くのにも笑ふのにも
まるで人形のやうに、内の命じるまゝにおとなしく從つてゐるから。
見て居ると涙が湧いて來る
尊いものを見た時の樣に。
[#地から1字上げ](一九一六、一二、二九)

  眼

眼よ、眼よ、不思議な眼よ。
赤ん坊の眼の動かぬ時の凄さ
充ち滿ちて溢れるものに迷ふ畏怖の眼だ。
何かゞ赤ん坊を内から動かしてゐる氣がして來る。その眼!
眠りから覺めた時によくする
苦るし相な目、生氣に滿ちたあの悲しい眼!
自分は眼を閉ぢ度くなる
あゝ眼、眼を造つたものは何だ。
寂しい處で眼を造つたものがあるのだ。
優しくしたり、恐くしたり、その眼に生氣を與へる者があるのだ。

  赤ん坊

赤ん坊は泣いて母を呼ぶ
自分の眼覺めたのを知らせる爲めに
苦るしい力強い聲で
母を呼ぶ。母を呼ぶ
深いところから世界が呼ぶやうに
此世の母を呼ぶ、母を呼ぶ

  北風

烈しい北風が吹き止んだ。
太陽が落ちると同時に
まるで申し合はせたやうに
地上のものを思はせる、確りした平和の夕暮が來た。
一層深く淨められた夕暮が來た。
惱みが鎭められたやうに。

  雪

雪が降つて世間の騷ぎが鎭つた。
人間は漸つと自分に歸つたやうな氣がする。
立派な永遠の法則に從つたやうに
同じやうな明るさと、
同じやうな靜かさが地平線の奧までひろがつて來る。
この靜さと光りの中に魂は安息と平和を得た。
永い苦るしみが忘られて、
自分等は行く道を見出したやうな氣がする。
古い地上の道は雪の中へ埋れて
新らしい道が空とぶ鳥のやうに自分等の胸に見出された。
自由と平等と安息と平和の道だ。
[#地から1字上げ](一九一七、一、二午後)

  小供

自分の小供は可愛相な程御世話燒きだ。
猫に袋をかぶしたり、ふろしきを冠せると
すぐとつてやらずにはゐられない
一生懸命になつてとらうとする
とれないと泣き出す
とつてしまつて猫を見ると非常に喜んで笑ふ。
今日も襖の明いて居たのを妻にしめさせると、
それが小供には氣に入らなかつた。
で又襖を明けさせた。
今度は自分で明けさせたと思つて? 泣き出した。
それが胸の中から一生懸命である。
氣にして居るのだ。
本能的にするのだ。
變つた事が恐いのだ。
危險な事が嫌ひなのだ。そのまゝ無邪氣な事が好きなのだ。
自分の小供は生れて未だ一年になつた許りだ。
小供は實に潔白だ。いゝ加減な事が嫌ひである。
小供の氣に向かない事をさせるのは惡いと思ふ。
可愛相だ。大變心配する。
かう云ふ氣性を失はないで育つてくれると面白いと思ふ。
然し餘り可愛相な氣もする。
[#地から1字上げ](一七、九、八)

  靴を買ひに

御母さんに手をひかれて
小供は靴を買ひに行つた。
たつた二日で初めて買つたズツクの靴を破つてしまつたので。
今度はもう少しいゝのを買ひに。
白い洋服に麥藁帽、赤い靴下をはいて
ぬかるみを拾ひ/\チヨコ/\歩いて
前へ 次へ
全26ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
千家 元麿 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング