居る。
工場か何かの濕つぽい汽笛が
ふくろのやうに一つ二つ呼び交し
機關車が蒸氣を吐き
風がザワ/\と空地で起り
然しすぐあと方もなく皆んな消えてしまふ。
矢張り靜かな春の夜だ。
時間はたつぷりあり餘つて居る。
自分はプシキンの「大尉の娘」を讀んで居る。
花やかでどこか氣味が惡い
豐富な興味と教訓に滿ちた
この變つた小説に先刻から夢中だ。
感嘆する
實に感嘆する
流石にプシキンだ。
簡潔な言葉の中に
無限の人情の世界を現出させ
少しもあせらずに單調に落着いて
然し不思議な波瀾を生んでゆく
數奇な運命を卷き起す筆の魔力には感嘆する
日本人の書いたものはこんなものに比べると實に貧しい、
色彩が薄い、
事件に都合のいゝところはあつても人情が豐かだ、リズムがある。
こんなものが書けたらば氣持がいゝだらうな
想像が刺撃されて心は苦るしくなる。
然し側から小供が咳をする
その方へ注意が集る
小供はピチヨ/\と舌を鳴らし鼻を鳴らす。
泣くかと思つて待つてゐるが眼は覺さない。
思はず「いけないね、咳をして」と云ふと
果して妻は今眼がさめたところ
同じ返事をして又眠り込む
自分は溜息をついて又本を讀みつゞける。
自分の母がかうだつた。
俺の事心配したが、この俺に感化されたのか
家中が寢鎭つてから
小供の襤褸布を取り出しても
仕事は明日の晩にして本をよむ事にする
どうかすると曉方まで
もう此頃はあの癖は止まつたらしい
然しあの頃の事は矢張り思ひ出すだらうな
あの頃は自分にも一番よかつた
善惡の觀念が單純にはつきりして居て
今程思想は混亂しないで
心の儘に振舞つて、少しの悔いも殘す事がなかつた。
又小供が咳をする。
が大した事はあるまい
明日もこの分なら暖いいゝ天氣に違ひない
一日、陽に當つたら癒るだらう。
未だ眠るのは惜しい
もう一章先きを讀むか。
春の夜
自分は春が好きだ。
夜更けて闇の中を家へ歸つて來ると
室で澤山人が話して居る。笑ひ、囁いて居る
上つて見ると誰も居ない
妻も子ももう眠つて居る
今のはあれは幻か、
たしかに誰か五六人居た氣がする。
がそんな事も永く不思議とは思はない
じつとして居ると
どこかで二三人の女の靜かな話聲がのろくさく
夜更けまで小聲でして居る。
陰氣なところがない。
自分の眼や心はすぐ生々して來る
涙ぐんで來る
こんな夜を過す人間は幸福だと
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