ねりの春らしい美くしさ、朝らしい靜かな喜び、
空は光りをはらんで霞んで居る。
眠りから覺めた許りの地面は
しつとりと汗を掻いてゐた。
人通りは未だすくない。
空に消えてゆく水蒸氣の中から雄大な景色が目ざめ
だん/\遠くの方がはつきりして
そこから人が現はれて來る。人數も殖えて來る
この大きな朝の世界に比べれば、
可笑しいほど小さい人間が
鳥のやうに、思ひ/\の方向へ歩いて居る
自分は擴大され、變化された
大きな祝福に滿ちた朝景色の中を
面白く嬉々として歩いてゆく。
[#地から1字上げ](一九一八、三、使命所載)

  夕暮

夕暮
天上は騷ぎだ。
太陽が沈む波動で
上騰して居た空氣が穴を明ける。
その中で空は青い眼を閉ぢる樣に
衰へ乍ら、幽かにふるへて此世から遠退く。
今見てゐるのは幻のやうに。
地上は靜かだ
擴大された道路の上に
人間は安らかに、靜かに歩いて居る。
佇んだり、しやがんだり、歩いたりして居る
ある可き處にある樣に
眞實に美くしくいろ/\の形をして居る。
そこへ寒い風が落ちて來て至らぬ隈も無く吹き廻しては消えて行く。
攫れたやうに人が居なくなる。
空は見る見る燃えつきて暗くなり
すつかり眼を閉ぢる。

  春の夜

春のやうな夜だ。
もの柔かな
自分の好きな春の夜だ。
自分は今夜も遲くまで眠ら無いで居る。
こんな晩には自分は眠られ無い者も不幸とは思はない。
他人の幸福も自分には羨やましく響かない
自分は空想をほしいまゝに刺撃して
小供の樣に勝手氣儘に遊んで居る。
時間はたつぷりと有り餘つて居る。
空想も有り餘つて居る。

妻子は一緒に書齋の隅に眠つて居る
健康に溢れて居る二人は
暖いので蒲團をはいで
不調ひな鼾をかいて居る。
只時々小供が咳をするのが氣になる限り
自分はこの靜かな春の夜を
誰にも邪魔をされずに
小供が眠るのを厭がる樣に
用も無いのに眠るのが惜しくて起きて居るのだ。

こんな時、
母が居たらば
きつと、「もう御休みなさい」と心配するに違ひ無い。
その癖後では人に向つて
「勉強家ですよ」と話して居る
あゝ春の夜だ。
四五年前の、十年も前のあの春の夜と同じ春の夜だ。
こんな晩には
幼稚な古臭い情緒にすら
自分の心は素直に動かされてわけも無く感激する涙すら浮んで來る。

じつと耳を澄すと
戸外ではそれでも少しづゝ動搖がある。
遠くでは犬が吠えて
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