思ふ。勿體ないと思ふ。
とても眠る氣にはなれない
一人で起きてゐる
いろ/\の過ぎ去つた事や未來の事を思ふ
どんな悲しみも苦しみも力なく消えて
只喜び許り感じられる。
隣りの室では妻も子も
自分のかへつたのも知らずに、晝間の疲れで眠つてゐる。
幸福な息使ひ
じつと聞いて居ると狹い室の中を
天使が羽ばたいてゐる樣だ。
夢ではないかと思ふ樣に
精神が何も彼も活氣づける。
然うして自分はいつまでも起きて居る
疲れて來るのも知らずに
疲れて來ると天使の羽ばたきは絶えてしまふ
ばつたり心が靜まる
今まで騷いで居た頭の中が空になる。
然しすぐ外で吹く風の音が活氣を誘つてくれる
明日の天氣を告げてゐるのだ。
風に向つて目のまはる樣な聲で鷄が啼く
聲が空にぶつかつて雄大にひろがつて消える。
天使の喇叭のやうだ、
窓から覗けばもう朝の訪れが見える
遠い星が消える樣に目を廻し初めて居る。
人が一人通つた。
鞋ばきで遠くへ行く人らしい
曉の寒さに咳をして
ドスンドスンと歩いて行く。
明日が樂しみだ。
一日一日と樂しみになる
不思議な春よ、
涙ぐみたい春よ
自分は春が好きだ。
こんな天空の下に生きて居る幸福を味ふと
涙ぐみたくなる
或る晩四人の友達と
霜解けのひどい田舍道を歩いた。
晝間なら一人では淋しい處を
四人は興奮して饒舌り乍ら
黒ずんだ林の中や霜解けの崩れる田圃道を先きになり、
あとになり、ぐん/\歩いた。
空には星が綺麗に三つ位連つて並んだり、
横になつたり、斜になつたりしてゐた。
丘の上の寢鎭つた家の窓には灯がともつて靜かに射して居た。
自分達は希望に燃えては仕事の話をして歩いた。
自分達が死んでも尚生きてそこにあるにちがひない、
大きな樹の下を默つて通つたり、
道惡を山羊のやうに跳ねて飛び越したり
小便をして遲れた友を一人殘して
行き過ぎてからうしろから馳けて來るのに氣がついて待つたり
その晩家へ歸つて來ても自分は
更くるまで一人で起きて居た。
未だ友達と話して居るやうに
内の騷ぎが鎭まらなかつた。
幸福で幸福でたまら無くて熱い涙が流れた。
友達の聲がほてつた耳にさゝやき
田舍の景色が眼に浮ぶ
永い間虐げられて居た感情が
美にふれて涙と溢れ流れるのを自分はとゞめる事が出來なかつた。
失つたと思つて居たものを見出した樣に
自分は有難くてたまらなかつた。
雁
暖い靜かな
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