關つてやらうと思ひ乍ら
ハガキに氣をとられつゝ
自分はNの『哀れな少女』の初めの一頁を息を殺して讀んだ。
然うしてあとを樂しみにして
幾度も自分を待つて呼んでゐる食事にいそいだ。
ハガキと原稿は自分の懷と袂に本能的にしまはれた。
自分は元氣に
妻や子供に、原へ連れて行つてやると云つた。[#地から1字上げ](一〇、一四)

  飯

君は知つてゐるか
全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを
赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに
冷たい飯を頬張ると
餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し
眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか
うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、
全身で働いたあとで飯を食ふ喜び
自分は心から感謝する。[#地から1字上げ](一〇、二五)

  眠れぬ者の歌

夜もすがら眠る者は幸福だ。
夜と共に眠る者よ
その面白さうな健康な呼吸よ
沈默の聲よ
幾多の人が集ひ寄つて
さゞめき、喜ぶやうな賑やかさ
『おゝ汝は笑つて居る、何が可笑しいのか』

夜もすがら眠り得ぬ者は不幸だ
彼は病んで居る
他界の人のやうに
幸福に擽られて居る露骨な笑ひを聞き乍ら
涙の浮んだ眼を見開いて居る。

『止めよ、止めよ
其の病的な幸福を、露骨な笑ひを止めて呉れ』
不幸な人は呟けど
夜もすがら幸福は眠れる者を去らず
病める者の耳を離れず
氣がつけばます/\露骨に話し合ひ、囁き、笑ひ
誘ひ込む樣に夜は騷しく更けて行く。
[#地から1字上げ](一〇、九)

  白鳥の悲しみ

美しく晴れた日、
動物園の雜鳥の大きな金網の中へ
園丁が忍び入り、
白鳥の大きな白い玉子を二つ奪つて戸口から出ようとする時
氣がついた白鳥の母は細長い首を延して朱色の嘴で
園丁の黒い靴をねらつてついて行つた。
卑しい園丁は玉子を洋服のポケツトに入れて
どん/\行つてしまつた。
白鳥の母は玉子の置いてあつた木の堂へ默つて引返へし
それから入口に出て來て立止つて悲しい聲で鳴いた。
二三羽の白鳥がそれの側へ首を延ばして近寄り
彼女をとりまいて慰めた。
白鳥の母は悲しく大きな聲で二つ三つ泣いた。
大粒な涙がこぼれる樣に
滑らかな純白な張り切つた圓い胸は
内部から一杯に搖れ動き、
血が溢れ出はしまいかと思はれる程
動悸を打つて悶えるのが外からあり/\見えた。
啼かなくなつてもその胸は痙攣を起して居た。
その悲しみは深くその失望は長くつゞいた。

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