た「いろは」歌(四十七字)が、不完全ながらもその当時の音韻組織を代表するものであった。しかるに、この仮名は初のうちは相当正しく音韻を表わしたであろうが、院政・鎌倉時代から室町時代と次第に音韻が変化して行った間に、仮名と音韻との間に不一致を来《きた》し、仮名が必ずしも正しく音韻を代表しない場合が生じた。ところが、幸に外国人が、外国の文字で表音的に当時の日本語を写したものがあって、その闕陥《けっかん》を補うことが出来る。支那人が漢字で日本語を書いたものと西洋人がローマ字で日本語を写したものとが、その重《おも》なものであるが、支那人のものは鎌倉時代のものも多少あるが、室町時代のものはかなり多い。しかし漢字の性質上、その時代の発音を知るにかなりの困難を伴う。西洋人のは、室町末期に日本に来た宣教師の作ったもので、日本語について十分の観察をして当時の標準的音韻を葡萄牙《ポルトガル》式のローマ字綴で写したものであるから、信憑《しんぴょう》するに足り、且つ各音の性質も大概明らかであって、当時の音韻状態を知るべき絶好の資料である。
 一 第二期における音韻の変遷
 第二期の終なる室町末期の京都語を中心とした国語の音韻組織は、大体右の資料によって推定せられるので、これを第一期の終なる奈良朝の音韻と比較して得た差異は、大抵第二期において生じた音変化の結果と認めてよかろうから、その変化がいつ、いかにして生じたかを考察すれば、第二期における音韻変遷の大体を知り得るであろう。
 (一) 奈良朝時代の諸音の中、二音が後の仮名一つに相当するものは、「え」の仮名にあたるものを除くほかは、すべて、平安朝初期においては、その一つが他の一つと同音になり、その間の区別がなくなってしまった。そうしてその音は、これにあたる仮名の後世の発音と同じ音に帰したらしい(ただしその中、「ひ」「へ」にあたるものはフィフェとなった)。かようにして、「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の一つ一つに相当する二音が、それぞれ一音を減じて、これらの仮名がそれぞれ一音を代表するようになった。この傾向は奈良朝末期から既にあらわれていたが、平安朝にいたって完全に変化したのである。
 (二) 「え」にあたる二つの音、(すなわちア行のエとヤ行のエ)の区別は、平安朝に入ってからも初の数十年はなお保たれて仮名でも書きわけられていたが、村上天皇の頃になると全く失われたようである。伊呂波歌以前に、伊呂波のように用いられた「あめつち」の頌文は四十八字より成り、伊呂波より「え」の一字が多く、「え」が二回あらわれているが、これは右のア行のエとヤ行のエとを代表するものと認められ、その四十八字は(一)に述べたような音変化を経て、まだ「え」の二音の別が存した平安朝初期の音韻を代表するものである(ただし、濁音はそのほかにあるが、清音の文字で兼ねさせたのであろう)。伊呂波歌はこの二音が一音に帰した後の音韻を代表するものである。さて、「え」の二音すなわちeとyeとが同音となって、どんな音になったか。普通常識的にe音になったと考えられているようであるが、必ずしもそうとはいえない。古代の国語では、母音一つで成立つ音が語頭以外に来ることは殆どないのであって、ただ「い」(i)と「う」(u)の場合に極めて少数の例外があるに過ぎない。「え」の二音のうちのeもまた語頭にのみ用いられた。これは、つまり古代国語では、一語中に、母音と母音とが直接に結合することをきらったのである。yeは語頭にも語頭以外にも用いられたのである故、eとyeとがすべての場合に同音に帰したとすれば、eよりもむしろyeになったとする方が自然である。何となれば、eになったとすれば、語頭以外のeはその前の音の終母音と直接に結合して、古代国語の発音上の習慣に合わないからである。しかし、またもとのeとyeとの区別が失われて、新たに語頭にはeを用い、語頭以外にはyeを用いるというきまりが出来たかも知れない。そんな場合にも、このeとyeとを同じ文字で書いたことは、東京語における語頭のガ行音と語頭以外の鼻音のガ行音とを文字に書きわけないのによっても理解することが出来る。かようなわけで、eとyeとがすべてeになったとする説は極めて疑わしい。
 (三) 次いで語頭以外の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音が「わ」「ゐ」「う」「ゑ」「を」と混同するようになった。これは「は」等の音の初の子音Fが唇の合せ方が少なくなり同時に有声化してw音に近づき遂にこれと同音となったもので(「ふ」はwuとなったのであるが、wuの音はなかったためuになった)、かような傾向は既に奈良朝から少しずつ見え、平安朝初期においても「うるはし」(麗)の「
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