に傍線]く(設)」「まう[#「う」に傍線]す(申)」のごとき二、三の語と、ヤ行上二段の語尾の場合とだけで、極めて少数である。
 (二) 語尾音については、特別の制限はなかったようである。しかし、当時の諸音はすべて母音で終る音であって、後世の「ん」のような子音だけで成立つ音はなかったから、語尾はすべて母音で終っていたのであって、子音で終るものはなかった。支那語には<m><n><ng>や<p><t><k>のような子音で終る音があり、日本人もこれを学んだのであるが、しかしこれは外国語としての発音であって一般に用いられたものではなく、普通には漢語を用いる場合にも、その下に母音を加えてmをmuまたはmi、nをniまたはnuなどのように発音したのであろうと思われる。(万葉仮名として用いた漢字において、mで終る「南」「瞻」「覧」をナム[#「ム」に傍線](またはナミ)、セミ[#「ミ」に傍線]、ラム[#「ム」に傍線]に宛て、kで終る「福」「莫」「作」「楽」を、フク、マク、サク、ラクに宛て、nで終る「散」「干」「郡」をサニ、カニ、クニに宛てたなどを見てもそう考えられる)。
 (三) 語が複合する時の音転化としては連濁がある。下の語の最初の音が濁音になるのである(「妻問《ツマドヒ》」「愛妻《ハシヅマ》」「香妙《カグハシ》」「羽裹《ハグクム》」「草葉《クサバ》」など)。この例は甚だ多いけれども、同じ語にはいつも連濁があらわれるというのでもなく、いかなる場合に連濁が起るかという確かなきまりはまだ見出されない。あるいは、もっと古い時代には規則正しく行われたが、奈良朝頃にはただ慣例ある語だけに行われたものであったろうか。
 次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。
[#ここから二字下げ]
エ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に転ずる(竹《タケ》―たかむら[#「か」に傍線]、天《アメ》―あまぐも[#「ま」に傍線]、船《フネ》―ふなのり[#「な」に傍線])
イ段の仮名にあたる音がオ段にあたる音に(木《キ》―木《コ》の実、火《ヒ》―火《ホ》の秀《ホ》―※[#「※」は「焔」の正字体で「旧」の部分が「臼」、151−8])
イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神《カミ》―神《カム》ながら、身《ミ》―身実《ムザネ》、月《ツキ》―月夜《ツクヨ》)
オ段の仮名にあたる音がア段にあたる音に(白《シロ》―白髭《シラヒゲ》)
[#二字下げ終わり]
 エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。(例えば、「け」に当るのは「気」の音と「祁」の音であるが、カに転ずるのは「気」の音だけで、「祁」の音は転じない。)
 しかし、右のような音のある語は常に複合語において音が転ずるのでもなく、全く転じない語もあって、その間の区別はわからない。想《おも》うにかように転ずるのは、ずっと古い時代に起った音変化の結果かと思われるが、その径路は今明らかでない。奈良朝においても、その結果だけが襲用されたもので多分に形式化したものであったろう。そうして同じ語でもこの例に従わぬ場合も多少見えるのは、このきまりが、奈良朝において既に守られなくなり始めていたことを示すものであろう。
 次に、複合する下の語の語頭音が母音一つから成る音(アイウエオ)である時、その音が上の語の語尾音と合して一音となることがある(荒磯《アライソ》―ありそ[#「り」に傍線]、尾《ヲ》の上《ウヘ》―をのへ[#「の」に傍線]、我《ワ》が家《イヘ》―わぎへ[#「ぎ」に傍線]、漕ぎ出《イ》で―こぎで[#「ぎ」に傍線])。これは、語頭の母音と語尾音の終の母音と二つの母音が並んであらわれる場合にその内の一つが脱落したので、古代語において母音がつづいてあらわれるのを避ける傾向があったことを示すものである。「にあり」「てあり」「といふ」が、「なり」「たり」「とふ」となるのも同様の現象である。「我《わ》は思《も》ふ」「我《われ》はや餓《ゑ》ぬ」など連語においても、これと同種の現象がある。かようなことは当時は比較的自由に行われたらしい。

     三 第二期の音韻

 平安朝の初から、室町時代(安士桃山時代をも含ませて)の終にいたる約八百年の間である。この間の音韻の状態を明らかにすべき根本資料としては、平安朝初期には万葉仮名で書かれたものがかなりあるが、各時代を通じては主として平仮名で書かれたものであって、この期の諸音韻は、大抵は平仮名・片仮名で代表させることが出来る。そうして、平安朝初期に作られその盛時まで世に行われた「あめつち」の頌文《しょうぶん》(四十八字)およびその後これに代って用いられ
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