キャシュキョのような拗音に属するものは多少あったかも知れないが、その数も少なく、また性質も違っていたかも知れない。「ン」のような音や、促音にあたるものもない。またパ行音もなく、カ°[#「カ」の半濁音]行音(ngで初まる音)も多分なかったであろう。ただし、以上述べたのは、当時、おのおの別々の音として意識せられ、文字の上に書きわけられているものの正式な発音であって、実際の言語においてはそれ以外の音が絶対に用いられなかったのではない。現に、「蚊」のごとき一音の語が、今日の近畿地方の方言におけるごとく「カア」と長音に発音せられたことは奈良朝の文献に証拠がある。けれども、正常な言語の音としては、以上のごときものであったろうと思われる。
 二 第一期における音韻の変遷
 奈良朝における音韻が以上のごとく八十七あったということは、奈良朝における文献の万葉仮名の用法から帰納したのであるが、奈良朝の文献でも、『古事記』だけにおいては、「も」の仮名にあたる万葉仮名に「母」と「毛」との二つがあり、それを用いる語にはそれぞれきまりがあって決して混同しない(「本」「者」「伴《トモ》」「思ひ」などの「も」には「母」を用い、「百《モモ》」「妹《イモ》」「鴨《カモ》」「下《シモ》」などの「も」には「毛」を用いる)。すなわち、『古事記』においては更に一つだけ多くの音を区別したのであって、すべて八十八音を区別した(「母」と「毛」との別は、「と」「そ」等オ段の仮名における二音の別と一致するものであろう)。『古事記』は、奈良朝の撰ではあるが、天武天皇の勅語を稗田阿礼《ひえだのあれ》が誦したものを太安万侶《おおのやすまろ》が筆録したもので、その言語は幾分古い時代のものであろうから、これに八十八音を区別したのは、奈良朝以前の音韻状態を伝えるもので、後にその中の一音が他と同音に変じて奈良朝では八十七音となったものと考えられる。そうして奈良朝でも末期になると、「と」「の」などの仮名にあたる二音の別が次第に失われたと見えて、これに宛てた万葉仮名の混用が多くなっていることは既に説いた通りである。この傾向を逆に見れば、もっと古い時代に溯《さかのぼ》れば、更に多くの音があったのが、時代の下ると共に他の音と同音になって遂に奈良朝におけるごとき八十七音になったのではあるまいかと思われる。奈良朝以前の万葉仮名の資料は甚だ少ない故に、確実に実証することは困難であるが、そう見れば見得る例はないでもないのである。
 なお、奈良朝において右の八十七音が存在するのは、当時の中央地方の言語であって、『万葉集』中の東歌《あずまうた》や防人歌《さきもりのうた》のごとき東国語においては同じ仮名にあたる二音の区別が混乱した例が少なくなく、その音の区別は全くなかったか、少なくともかなり混じていたのであろうと思われる。そのほか、中央の言語にないような音もあって、音韻組織に違いがあったろうと考えられるが、委《くわ》しいことは知り難い(東国語の中でも、勿論土地によって相違があったであろう)。
 三 連音上の法則
 (一) 語頭音に関しては、我が国の上代には、ラ行音および濁音は語頭音には用いられないというきまりがあった。古来の国語においてラ行音ではじまるあらゆる語について見るに、それはすべて漢語かまたは西洋語から入ったもので、本来の日本語と考えられるものは一つもない。これは、本来我が国にはラ行音ではじまる語はなかったので、すなわち、ラ行音は語頭音としては用いられなかったのである。また、濁音ではじまる語も、漢語か西洋語か、さもなければ、後世に語形を変じて濁音ではじまるようになったものである(例えば、「何処」の意味の「どこ」は、「いづこ」から出た「いどこ」の「い」が脱落して出来たもの、「誰」を意味する「だれ」は、もと「たれ」であったのが、「どれ」などに類推して「だれ」となったもの、薔薇の「ばら」は、「いばら」から転じて出来たものである。)これも、濁音ではじまる語は本来の日本語にはなかったので、濁音は語頭音には用いられなかったのである。しかしながら、漢字は古くから我が国に入っていたのであって、我が国ではその字音を学んだであろうし、殊に、藤原朝の頃からは支那人が音博士《おんはかせ》として支那語を教えたのであるから、漢字音としてl音や濁音ではじまる音を学んだであろうが、しかし、それは外国語であって、有識者は正しい発音をしたとしても、普通の国民は多分正しく発音することが出来なかったであろうと思われ、一般には、なお右のような語頭音の法則は行われたであろうと思われる。
 また、アイウエオのごとき母音一つで成立つ音は語頭以外に来ることはなかった。ただし、イとウには例外がある。しかしそれは「かい[#「い」に傍線](橈)」「まう[#「う」
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