の音とが、それぞれeとyeであって、ア行のエとヤ行のエとの別に当るものであることは既に述べた通りである。さすればこの二音の別は、五十音では行の違いに当るのである。しかるにその他のものにおいては、必ずしもそうでない。この種に属するものは、これにあたる仮名を五十音図に宛てて見ると左の通り、イエオの三段にかぎられて、ア段とウ段とにはないのである。
  き ぎ ひ び み         (イ段)
  け げ へ べ め         (エ段)
  こ ご そ ぞ と ど の よ ろ (オ段)
 これらの仮名が、それぞれ奈良朝の二つの違った音に相当するのであるが、その二つの音に宛てた万葉仮名の漢字音を支那の唐末または五代の頃に出来た音韻表である『韻鏡《いんきょう》』によって調査すると、この二つの音の違いは、支那字音においては、転の違いか、さもなければ等位の違いに相当する。転および等位の違いは最初の子音の相違ではなく、最後の母音(またはその後に子音の附いたもの)の相違か、または、初の子音と後の母音との間に入った母音の相違に帰するのである(例えば<ko><po>の類と<ko[#「o」はウムラウト]><po[#「o」はウムラウト]>の類との差、または<kia><pia>と<ka><pa>との差など)。奈良朝の国語における二つの音の相違を、漢字音における右のような相違によって写したとすれば、当時の国語における二音の別は、最初の子音の相違すなわち五十音ならば行の相違に相当するものでなく、母音の相違すなわち五十音の段の相違か、さもなければ、直音《ちょくおん》と拗音《ようおん》との相違に相当するものと考えられる。それでは実際どんな音であったかというに、諸説があって一定しないが、しかし、一つの仮名に相当する二音の中、一つだけはその仮名の現代の発音と同じもので、すなわち、イ段の仮名ならばiで終り、エ段ならばe、オ段ならばoで終る音であることは一致している。他の一つについては右の<−i><−e><−o>に近い音であることは一致しているが、あるいはこれに近い開音(それよりも口の開きを大きくして発する音)<−I><−※[#「※」は発音記号で、「3」を左右反転した形、145−7]><−※[#「※」は発音記号で、「c」を左右反転した形、145−7]>であるとし(吉武氏)、あるいはこれに近い中舌母音(舌の中ほどを高くして発する音)<i[#「i」はウムラウト]><e[#「e」はウムラウト]><o[#「o」はウムラウト]>であるとし(金田一氏)、あるいは、母音の前にwの加わったワ行拗音<−wi><−we><−wo>であるとし、あるいは、イ段エ段では母音の前にy(音声記号〔j〕)の加わったヤ行拗音<−yi><−ye>であるとし、オ段では中舌母音<−o[#「o」はウムラウト]>であるとする説(有坂氏)などある。私もイ段は−iに対して−ii[#最初の「i」はウムラウト](i[#「i」はウムラウト]は中舌母音)、エ段は−eに対して−※[#「※」は発音記号で「e」を180度回転させた形、145−11]iまたは−※[#「※」は発音記号で「e」を180度回転させた形にアクサン、145−11]e(※[#「※」は発音記号で「e」を180度回転させた形にアクサン、145−11]は英語にあるような中舌母音)、オ段は−oに対して中舌母音o[#「o」はウムラウト]であろうかという仮定説を立てたが、まだ確定した説ではない。
 以上述べた所によれば、奈良朝における諸音の発音は、これに相当する仮名の現代における発音に一致するものが甚だ多いのであって、これと異なるものは「ち」「つ」「ぢ」「づ」およびハ行の仮名に相当するものであり、サ行およびザ行の仮名にあたるものも、或るは現代の発音と違っていたかも知れない。当時の音で、現代普通に用いられないものはヤ行のエにあたるye、ワ行の「ゐ」「ゑ」「を」にあたる<wi><we><wo>であり、「ぢ」「づ」と「じ」「ず」とは、現代語では普通発音の区別がないが、奈良朝には、おのおの別々の音であった。「き」「け」「こ」「そ」「と」「の」「ひ」「へ」「み」「め」「よ」「ろ」および「ぎ」「げ」「ご」「ぞ」「ど」「び」「べ」の十九の仮名の一つ一つにあたるそれぞれ二つの音は、一つは現代語におけると同じ音またはこれに近い音であるが(ただし「ひ」「へ」の子音は現代語と違い、「そ」「ぞ」の子音も現代語とちがっていたかも知れない)、他の一つは、これに近いがそれとは違った(現代の標準語には普通に用いられない)音であった。
 以上のように奈良朝においては、現代よりは音の種類が多かったのであるが、しかし、それはいずれも短音に属するもので、「ソー」「モー」のような長音に属するものはない。また
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