方が他のものに比べて比較的例外が多く、オ段の中でも「ト」という仮名には割合に例外が多いのであります。そうしてこれを歴史的に見ますと、平安朝に入るとその例外がますます多くなって来て、そうして醍醐《だいご》、村上《むらかみ》の御代《みよ》になりますと、かような区別のあった痕迹も見えないのであります。恐らくは大体において奈良朝くらいまでで終り、平安朝になると区別がなくなチたものと考えられます(ただしエだけは特別で、平安朝に入ってもその初期には区別があります)。区別がなくなれば書き分ける必要もなく、一つでよい訳であります。更に平安朝ばかりでなく奈良朝の末の方になると大分混乱が見えて来ているのでありまして、殊に或る仮名になると奈良朝の中頃から終頃になると全く区別がなくなったのではないかと思われるものもあるのであります。ところがこれを逆に溯《さかのぼ》って行くと、『古事記』になりますと「モ」にも二類の区別があって、それが奈良朝においては、もはやその区別が認められないのであります。『古事記』は天武《てんむ》天皇が稗田阿礼《ひえだのあれ》に伝誦《でんしょう》させられたのを太安万侶《おおのやすまろ》が書いたものであります。恐らくはそれはもう少し古い時代の言語および発音を比較的忠実に伝えておったろうと思いますから、そうすれば、この奈良朝よりももう少し古い時代においては、奈良朝にあったよりももっと多くの仮名において区別があり、尠《すくな》くとも「モ」の仮名だけは区別があったのでありましょう。それよりもっと古く溯ればどうかというと、それは推古《すいこ》天皇時代のものが幾らか遺《のこ》っているのでありますが、この時代のものに右のような仮名の使いわけがあるかどうかは、それだけは明瞭に判りませぬ。というのは、万葉仮名で書いたものが非常に少ないから、一つ一つの仮名がどんな場合に用いられ、どんな場合に用いられないかをきめることが出来ないからであります。けれども、奈良朝における例と比較して見ますと、やはり推古天皇時代においてもそういう区別があったと認めてよく、それに背《そむ》くような例はないのであります。それから更に古くなればどうなるか、それは我々はちょっと何とも言えませぬが、この種の仮名の用法上の区別が後になるほど少なくなり、古いほど多いという傾向があるのを見ると、あるいはずっと古い時代になれば、もっと沢山の仮名においてこの種の区別があったというようなことがあったかも知れないと思うのであります。しかしこれは単に推測に過ぎませぬ。
 さてこれまでは主として仮名の使い分けの問題として考えて来たのでありますが、それでは、そういう使い分けがあったということは何故であるかと考えて見ますと、それはどうしても単に仮名だけで使い分けておったのではないと思うのであります。実際の発音が同じであるのを、単にこの仮名はこういう語に使い、この仮名はこの語に使うという風にして覚えて、使いわけたというのではなくして、やはり発音上そういう区別があったため、その音の違いが文字の上に現れているのだというように考えられるのであります。例えば甲斐国《かいのくに》の「カ」を「甲」と書きますが、実際古典にも甲斐国の「カ」は甲の字が大抵書いてあります。そういうようなことであると、甲斐という国名と「甲」の字とが結びついている故、これを「甲」の字で書くという定《きま》りが自然に出来ましょう。しかしそれは甲斐という国名をいつもきまった一つの文字(「甲」の字)で書くという定《きま》りだけであります。ところが右に述べたような仮名の使い分けを見ると、「エ」にしても「ケ」にしても「キ」にしても、これに使う万葉仮名は非常に沢山の違った文字があって、それが二つの類にわかれている。そうして同じ語でもいつも同じ字で書くのでなく、いろいろ違った文字で書く。その場合に、一々の文字について、これはどの類に属するかを覚え、また語についてもこの語はどの類の字で書くべきかを一々記憶して、それで間違わないで書き分けるということは、それは殆ど不可能だと思われます。そうして奈良朝時代において色々のちがった人が書いたものにおいて、その用いる万葉仮名は必ずしも同じ文字ではないのに、皆一様に二類の区別が守られているのであります。奈良朝の文献は幾つかありますが、その中『古事記』は無論太安万侶一人が書いたものであるが、しかし『日本書紀』のようなものになりますと、数人の編輯者《へんしゅうしゃ》があって、巻ごとに違っているとは言えませぬけれども、巻によって誰かが主になって書いたという違いがあると思います。それは、巻中に用いられている仮名をみると、全く同類に属する仮名でどんな字を使ってもよいのでありますが、その中でこの巻には他に用いない特別の文字を使っていると
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