書いているのであります。
 かように宣長翁の『古事記』研究によって『古事記』の仮名の使い方の上に清濁が非常に厳重に使い分けてあるということ、それから或る特殊の語によっては特殊の仮名の定りがあること、こういう二つの事実が明らかになったのであります。しかし宣長翁は『古事記』以外のものについては精密に調べる暇がなかったのであります。そこで宣長翁の弟子である石塚龍麿がその研究を続《つ》いで、先ず清濁に関する研究を行って、その結果を集めて『古言清濁考』を作ったのでありますが、もう一つの特殊の語における仮名の使い方についても、また宣長翁の研究を拡充して『仮名遣奥山路』というものを作った訳であります。そういう仮名の用法上の調査研究について、宣長翁の研究が『古事記』に限られていたのを推拡《おしひろ》めてあらゆる古典について研究したのが龍麿であったのであります。『清濁考』の方は、宣長翁のはじめて言われた清濁の書き分けについて『古事記』のみならず『万葉集』『日本紀《にほんぎ》』その他古代の文献について調べた結果、古代においては清音の仮名と濁音の仮名とはちゃんと使い分けてあるという宣長翁の説の正しいことを認めて、そうして、どういう語のどこが濁音であるか、どこが清音であるかということを一々の語について区別して、そうしてその証拠とすべき実例を挙げております。それが三冊あるのであります。初めに清濁相対する万葉仮名の表がありまして、一番初めに『古事記』の仮名を出し、どんな文字は清音、どんな文字は濁音と区別してあげてあります。次に『万葉集』『日本紀』の仮名についても同様で、以上三種の書について仮名の清濁の区別を挙げてあります。それから後は「ア、イ、ウ、エ、オ」の順で単語を出して、どこが濁るか、どこが濁らないかということを古典から例証を挙げて示しているのであります。この書によると、例えば「騒」という意味の「さわぐ」の「ぐ」が昔は清音で「く」であった。あるいは「仇」「敵」という意味の「あだ」は昔は「あた」で人麿《ひとまろ》の歌の「あたみたる虎《とら》が吼《ほ》ゆる」の「あた」を清音の仮名で書いてあります。近畿地方等で「狐があたんする」と言いますが、この「あたんする」は復讐するということであります。これも「あたみ」をするということで、動詞で「あたみ、あたむ、あため」と活用するものでありますが、それが名詞になって「あたみ」になり更に「あたん」と転じたものでしょう。これでも「あセ」でなくして「あた」と清むということが解ります。「あた」は室町時代にも清音である。それから鳥などが草の中を潜《くぐ》るということを『万葉集』等に「くく」「くき」ということがありますが「草ぐき」というのは名詞になっているのであります。「木《こ》の間《ま》飛びくく鶯《うぐいす》」とあるのは動詞の例です。これを「潜る」という語を聯想して「くぐ」と読んでおりますが、これは「くく」で濁らないのです。かように大抵の場合は清濁が分けてありますけれども、実例についてよく調べてみると、語によっては少しはっきりしないものもあるようであります。それには色々な理由が考えられます。例えば、我々の見ることの出来る本が写し違いであって、そのために乱れているかも知れない。また同時に、語によっては或る場合には濁音に発音し、或る場合には清音に発音するということもあったかも知れないと思います。助詞の「ぞ」などは清濁がはっきり決めにくいのでありますが、もとは清音で「そ」であったろうと思います。他の語の下に用いられるようになって、段々濁音になったというようなことがあったので、或る場合には濁音、或る場合には清音で書いてあるということもあると思います。そういう訳であらゆる場合にすっかり決まっているとは言いにくいようでありますけれども、大体において清濁を区別して書いたということは言えるのであります。
 『清濁考』に関することはそれだけにして、次に本居宣長翁がはじめて言い出した特別の語における仮名の定《きま》り、例えば子の「こ」には「古」を当てる、女の「め」には「売」を当てるというようなことの研究を、龍麿は『古事記』のみならず広くその当時の典籍について行った結果として、実に意外なことが見付かったのであります。その結果をまとめて書いたものが『仮名遣奥山路』であります。この書物は写本で伝わっているのでありまして、余り世間には沢山はないようであります。これはやはり三冊になっております。この写本で伝わったものを昭和四年になって「日本古典全集」という、学問の研究上には必要な書物を沢山収めてある叢書の中に二冊として出しました。これは今の所では唯一の版本です。これは実は私が写しておいた本を土台にして出したのであります。龍麿はどういう結果を得たかと申しますと
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