よって古今の違いがあるので、今我々が濁って読む語でも昔の人は清んで読んでおった。だから、ちょっと見ると濁るべき所を濁らない文字で書いてあるように見えるけれども、そうではない。例えば、宮人を今は「みやびと」と読むけれども昔は「みやひと」である。『古事記』の中に宮人という語は清音の仮名で書いてあって、濁音の仮名で書いてあるものは一つもない。それは「みやびと」といっておったのを清音の仮名で書いたのではなく、「みやひと」と言っておったから清音の字で書いたのである。「島つ鳥」も「しまつどり」と今はよく読みますけれども『古事記』には決して濁音の仮名では書いていない。だから「しまつとり」と読んだものと認められる。清濁は古今で違うものがあるから、ちょっと見ると「しまつどり」の「ど」に当る所に清音の仮名が書いてあるから、昔は清音の仮名で濁音を書いているように見えるけれども、そうでなく、昔は清んでおったのだ。こういう考えであります。枕詞《まくらことば》の「あしびきの」は「あしびき」と読みますが、これも「あしひきの」であって「ひ」というのは皆清音の仮名で書いてある。そういうことを宣長翁が発見されたのでありまキ。つまり、昔は清濁を厳重に書き分けてある。だから、どういう仮名で書いてあるかということを見れば、昔清音であったか濁音であったかということが判る。そうして、言語としては、昔清音であった語を後世濁音に発音するというような古今の違いがあるということが明らかにせられたのであります。清濁というと純粋に音に関することのようであります。また事実、それはそうに違いない。しかしながら、この宣長翁の取られた方法は、一々の仮名について、この仮名はどんな所に使うか、「久」なら「久」はどういう所に使うか、「具」はどういう語に使っているかという風に、あらゆる例を調べて、そうして「久」は「く」と清む音に使い、「具」は「ぐ」と濁る音に当る所にいつも使っているということを見付けた訳であります。さすれば、やはり仮名の用法の研究であると言ってよいのであります。もし「久」を書きながら「ぐ」と読むものがあるということになれば、「久」という字は或る場合には「具」と同じであると言える。「具」と同じであるとすれば「久」と「具」の間にはっきりした用法上の区別がないということになります。「久」と「具」とは、きっぱり二つに分れず、或る場合は一つにしたと見なければならぬことになります。が、宣長翁はこれらの仮名がいかなる語に用いられているかを調べて、沢山の実例からして、「久」は後世において「ク」と清音に読んでいる場合に用い、「具」は濁音に読んでいる場合に用い、たとい音の清濁は後世と違ったものがあっても、同じ語ではいつも「久」を用いるか、さもなければいつも「具」を用いるかであって、決して同じ語に「久」を用いたり「具」を用いたりした例がないのを見て、この両方の区別がはっきりしているということを見出したのであります。そうすると仮名の用法の問題として取扱ったのだと言ってよいのであります。これが宣長翁の研究によって明らかにせられた一つの事実であります。
 もう一つの事実は、これよりもなお面白く珍しいものであります。それは同じ音の仮名の中にでも、語によってこれに用いる仮名が違っておって、おのおのきまっているものがある。例えば、同じ音の仮名、「こ」なら「こ」に当る仮名については、一般に「許」と「古」と二つを用いている中に、例えば「子」という意味の「こ」の場合には「古」を用いて、「許」を用いたものは一つもない、また「め」の音には一般に「売」「米」を用いた中に女と言う意味の「め」には「売」の方を用いて、「米」という字を用いた例はない。あるいは「み」の音には「美」「微」を一般的に使うのであるが、神《カミ》の「み」、あるいは木の実の「み」とか、身の「み」は「微」という字を使って、「美」という字を使ったものはない。そのほかまだ沢山あって「と」とか、「ひ」とか、「け」とか、「き」とか、「ぬ」とかいうようなものがありますが、「ぬ」は一般に「奴」と「怒」を用いている中に、「野《ヌ》」であるとか、「角《ツヌ》」であるとか、「偲《シヌブ》」、「篠《シヌ》」という風な現在「の」と発音するものは、昔は「ぬ」と言って、その「ぬ」には「怒」を使って「奴」を使った例はない。「奴」と「怒」は音が同じであるけれども、その中の或る語においては「怒」を使って「奴」を使わない。こういうような定《きま》りがあるということを見付けたのであります。それで、こういう風の定りというものは『万葉集』等には仄《ほの》かに見えるけれども、まだすべてを調べない。けれども『古事記』の仮名の使い方は非常に厳重であって、他の書物は『古事記』ほどには厳重でないということを宣長翁が
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