の音しかないのであります。これにくらべて英語なんかはかなり音の数が多いのでありますけれども、それにしても三十あまりでしょう。ドイツ語やフランス語でも大体そんなものです。それ位の数の、違った音があって、それを色々に組合せてその言語におけるあらゆる語が出来上っている訳で、つまりそういう言語を用いている人は、それだけの音を聞き分けまた使い分けているのであります。
それでその言語においてどれだけの違った音を用いるかということは、言語として非常に大切なことであります。というのは、そういう音の違いというものは言葉の意味に関係して来るからであります。例えば「石《イシ》」という語と「椅子《イス》」という語は、我々はこれを聴いて確かに別の語だということがはっきり判る。すなわち「シ」の音と「ス」の音とを我々が耳に聴き分けるからであります。「イル」と「エル」とも、我々はこれを聞いて別の語だとわかるのですが、「イル」と「エル」との間において「イ」の音と「エ」の音とが違っているために「イル」という語と「エル」という語は同じではないということが解るのです。「マド」と「マト」、「ヌク」と「ヌグ」も、トとド、クとグを聴き分けて、これは違った語だと知るのであります。かように音の違いが語の違いの標識になる。語が違うのはつまり意味が違うのですから、音の違いは意味を識別する標《しるし》になる。それで音の区別は大切な訳であります。
右に挙げたような、シとス、イとエ、トとド、クとグなどの音を互いに違った音として区別するのは、我々には常のことですから、我々は当然別の音だと考えております。これを区別しないものがあろうなどとは考えないのであります。それでは、これらの音は音の性質上いつでも別の音であるかというと必ずしもそうではないのであって、或る国に往《ゆ》けば「マド」も「マト」も音として区別しないという所もあるのです。我々は「サシスセソ」と「シャシシュシェショ」を別の音と聴きますけれども、アイヌ人などになると、言語の音として同じ音だと思っているのであります。この語は「シャ」というか「サ」と言うかと尋ねると、どちらも同じではないかと言う。すなわちアイヌ人には言葉としては「シャ」でも「サ」でも同じことで、それを同じ音として考える。そういうことがあるのでありますから、言語の音を区別して別の音とするのは、音自身のもっている性質というよりは、その音を聴き、あるいは使う人の心の中での心理的のはたらきであります。それは言語の違うに従って違っております。我々は「サケ」と「シャケ」が間違ったら飛んでもない間違いを起しますが、アイヌ人は「サケ」も「シャケ」も音としては同じことなんです。それであるから、やはり言語によってそれぞれどういう音を同じ音とし、どういう音を違った音として聴くかというきまりがあるのであります。それで或る言語においてどれだけの音を違った音として区別するかということが大切な問題となるのであります。それは今言った通り言語の意味に関係して来る。違った語であるということは主として音によって識別し、音が違っているから違った語であるという風に考えるのが常であるからであります。
そういう訳ですから、古典を研究し古典の意味を解釈するという場合においても、昔の人がどれだけの音を聴き分け、言い分けておったかということを知るのが大切であります。
現在の言語においては、その音の違いということは音そのものを聴いてそれで判ります。その言語を使っている人ならば、この音とこの音は同じである。例えば口を大きくして言う「ア」の音、口を余り開かないで言う「ア」の音、そういう音は日本人の耳にはどちらも同じ音と聞くのです。普通日本人は皆そうだろうと思いますが、英国人などはそれを違った音として区別して聴くのであります。marketとmatchとmuchのmar− ma− mu−の部分は英国人はそれぞれ別の音として聞き、これを違えれば意味も違って来ますが、日本人は同じ「マ」の音として聴くのであります。かような音の異同はそれを使っている人について聞いてみれば解る訳で、さようにして調べれば、その言語ではどれだけの音を違った音として聴き分けるかということがわかるはずです。その音の数は同じ言語でも時代によりまた土地によって違うもので、同じ日本語でも一口には言えない。例えば「エ」と「イ」の区別は日本でも処によっては判らず、「イシ」だか「エシ」だか区別が付かない処がある。であるからそれぞれの土地の言語について別々に考えてみなければならぬのでありますが、或る一地方の言語においては、その言語に用いる違った音の数というものはきまっている。その一定数の違った音を色々に組合せてその言語は出来上っているのであります。つまりそれらの音を色々
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