用をなしている。音としては二種のものを表わす訳であります。それから拗音、「きや」と書いて「キャ」と読む。これも仮名を二つ合せて書いた別の音であります。それからまた長音があります。これらの音は「いろは」四十七文字では代表せられていないのであります。それだから「いろは」四十七では足りないといわなければなりませぬ。足りないではありますけれども、しかし「いろは」四十七文字が大体において現代の音の区別を或る程度まで代表していると言うことが出来ます。
 けれどもその「いろは」四十七文字の中には、実際の音としては同じものがある。仮名としては違っているけれども発音としては同じである。すなわち「い」と「ゐ」、「を」と「お」、「え」と「ゑ」。これは現代の日本語では同じ発音であります。仮名遣《かなづかい》の上では区別しますけれども、実際の発音としては同じである。そうすると四十七字は実際の音としては四十四音しか表わさないということになります。それで五十音図は、前に言った通り仮名として区別のないものが三つ、仮名として区別があっても今言ったように発音としては同じものが三つあって、六つだけ余計ある訳である。そうですから、五十音の中から六つ引いた四十四だけが音として現在我々が言い分け聴き分けているものであります。それ以上は音として区別していません。
 ところが、こういう風に発音が同じでありながらも仮名としては違っているのでありますから、仮名としては使い分けなければならない。それならば、どういう場合に「い」を使い、どういう場合に「ゐ」を使うかということが問題になる。音で聴いたところでは判らない。犬の「イ」という音をどれほど考えてみても、「い」と「ゐ」とどちらを使うのだということは判らない。発音としては同じでありますけれども、仮名としては違っているとすれば、どちらを使ってもよいという訳には行かない。いずれかを使わなければならぬ。そこで仮名遣という問題が起る。犬の「イ」ならば「い」を書く。居るの「イ」の音は「ゐ」を書く。同じ「イ」でもその言葉によってどちらを使うかということをきめたのが今の仮名遣であります。
 さてこういう仮名遣の問題を純粋な学問的な方法で解決したのが契沖阿闍梨《けいちゅうあじゃり》であります。我々は「い」と「ゐ」を同じように読んでおります。ただ、音の上で考えたのでは、どちらを使うかということは判らないのであります。ところが契沖阿闍梨は古典を調べ、古い時代の仮名の用法を調べまして、古い時代には語によっていずれの仮名を用いるかということがちゃんと決まっていて混乱しない。「入る」の「イ」はいつでも「い」を用いて「ゐ」を用いない。「居る」という意味の「イル」ならば必ず「ゐ」を用いて「い」を用いない。そういうことを発見したのであります。調査した材料は非常に古い時代のものであって、主として国語を万葉仮名で書いたものによって調べたのであります。そうしてどういう風に調べたかというと、同じ語をどういう万葉仮名で書いてあるか、同じ語が色々の場合に用いられているのにどういう万葉仮名で書いてあるかということを調べたのであります。
 例えば「大蛇」というような場合に『古事記』では「遠呂智」と書いてあり『和名抄《わみょうしょう》』では「乎呂知」と書いてある。「惜」は『万葉集』に「嗚思」、「遠志」、「怨之」、「乎之」、こう書いてある。それから「己《オノ》」は「意能」、「於能」、「意乃」。それから機《はた》を織る意味の「織」は「於瑠」、「淤呂須」というのは織るということを敬語にしたのであります。それから「弟」は「乙登」、「淤登」、「於止」。そういう同じ語を仮名で書いたのを集めてみると、「遠」と「乎」は同じ語の同じ部分に宛ててあるのでありまして、どちらを用いてもよい。すなわち用法から言えば通用するのであります。また「嗚」と「遠」と「怨」と「乎」も同様で、同じ処に使ってあって、通用する。結局、「大蛇」のオも「惜し」のオも同じもので、これを「遠」「乎」「嗚」「怨」というような文字で書いてよく、これらの文字は相通じて用いることが出来るものである。それから「意」「於」「淤」「乙」は同じ語の同じ部分を書いてあるからこれもどれを使ってもよく、互いに通用するのであるということがわかる。こういうものを沢山集めて、それがどういう文字で書いてあるかということを同じ語の幾度も出て来るものについて調べてみると、どの字とどの字が同じ場合に用いられるかが明らかになる。そうして「大蛇」「惜し」の「を」には、いろいろの文字が用いられるが、その文字と「己」「織る」「弟」の「お」に用いられる色々の文字との間には区別があって、「己《オノ》」の「オ」に「嗚」とか「遠」とか「怨」とか「乎」とかを使った例はない。「織る」「
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