と書いても「キョー」であります。これは実際に今日の言語においては同じ音でありますが、字の形は皆違っております。字の形をたよりにしてみればこれは皆違った形であるから違った音かと思われます。ところが実際においては皆同じ発音をしている。そうかと思うと「孔子」も仮名では「こうし」と書きますし、「犢」も「こうし」と書きます。これは眼に見える形は同じであっても発音は違っている。そういうことが昔になかったとも言えない。「おる」「をる」「とほる」「あふひ」の「お」「を」「ほ」「ふ」は、今日では皆同じオの音であります。これは発音は同じで字が違っている。字の方を土台にして考えてみると違ったように見えながら、実際はその発音は同じであります。こういうことが我々の眼の前にあるのでありますから、昔においてもこういうことがありはしなかったか。字に書いたものを土台にして調べるという場合には、すぐこんな問題に打突《ぶつ》かるのであります。
 古い時代の古典は、国語の音は万葉仮名で書いてあります。万葉仮名はどうかと言いますと、平仮名や片仮名どころの騒ぎではないので、同じ音に対して非常に沢山の違った文字が使ってある。例えば今日我々が「ア」と読んでいる中にでも「阿」「婀」「鞅」「安」のような色々の文字があって、これらの文字を悉《ことごと》く我々は「ア」と読んでいる。「ア」と読んでいるというのは、我々が「ア」だと考え、皆同じ音だと考えてそう読んでいるのであります。「テ」にしても「弖」「帝」「底」「諦」「題」「堤」「提」「天」こんな色々な字が書いてある。これを我々今日「テ」と読んでいる。字としてみれば皆違った字で、しかも非常に沢山違った文字が使ってある。字が違っているということから言えば「阿」と「婀」と「鞅」と「安」の違いも、これらと「弖」「帝」「底」などとの違いも同じ違いであって、その間に区別はない。それだのに我々は、「阿」「婀」「鞅」「安」等を皆アと読んで同じ音の字とし、「弖」「帝」「底」等を皆テとよんで同じ音であるとし、そして「阿」……の類と「弖」……の類とは互いに違った音の文字だとしているのであるが、それは我々がそういう風に区別しているだけで、昔の人も我々と同じくこれらの文字を「ア」という音「テ」という音に読んだか、また我々が同じ音に読む多くの文字の中、昔は或るものは或る一つの音によみ、或るものは他の違った音によんだことはなかろうかというようなことは、研究してみなければ解らないのであります。我々がそう読むから昔でもそうだったと考えるのは、独断というよりほかありません。
 そうして見ると、古い時代の言語の音のことを考えてみるには、言語の音を写した万葉仮名(仮名や片仮名でもよろしい)によらなければならないのでありますが、仮名として用いられた文字は非常に沢山あります。万葉仮名はすべてで恐らく千以上もあるだろうと思います。それは皆一々違った音をあらわしたとは思われませんが、とにかく文字は皆違っているのですから、その中のどれだけが同じ音で、どれだけが互いに違った音であるか、そういうようなことは予め決める訳には行かない。よく研究してみなければならないのであります。
 現代においてもいわゆる変体仮名というものがあって、同じ音を色々違った文字で書くことがあります。けれども現代においては変体仮名というものは、正体《せいたい》の仮名に対するもので、「か」ならば「か」は正しい形として「※[#「※」は変体仮名、28−8]」とか「※[#「※」は変体仮名、28−8]」とかいうもの、まだ幾らもありますが、こういうものを「か」のかわった形と認め、結局「か」の代用と考えているのであります。その正体の仮名は全体幾つあるかというと、これは普通ならば「いろは」の四十七、その他に「ん」が別に加わっておりますが、まず四十七であります。これを代表するものは「いろは」であります。今はよく五十音が使われますけれども、五十音の中には仮名として同じ形をしているものが三つあって、ア行の「い」とヤ行の「い」、ア行の「う」とワ行の「う」、ア行の「え」とヤ行の「え」は字としては区別がないのですから、仮名として見れば五十音の中から三つ引いた四十七、つまり「いろは」と同じ訳です。その他に「ん」があります。ですから現代においては「いろは」四十七と「ん」、これが現代における違った音を代表する仮名であるというように考えることが出来ます。
 しかし、それではそれで現代の違った音をすべて代表しているかというとそうではありませぬ。その他に濁点があります。これが十八ばかり。それから促《つま》った音、それは「つ」という字を書くのでありますけれども、この仮名は普通の「つ」の音に読む場合と、「有つた[#「つ」に傍線]」という風に促った音と、二つの
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