桙ノは気が附かなかったのでありますが、その後、宣長翁の『古事記伝』を見ますと、巻十七「塩盈珠塩乾珠《シホミツタマシホヒルタマ》」の条に「乾」の活用のことがありまして、「ヒ、フ、フル」と活用する語であると書いてあります。しかしそう読むと、今は余り耳遠いからして「ヒル」と訓《よ》んで置くといっているのであります。そうすると、宣長翁も上二段活用であったと考えておられたと思われます。私はそういうことには気が附かず私だけで調べた結果得た結論が宣長翁の説と偶然一致したのであります。以上のように考えて来ると、上一段にハ行の活用があったという証拠は全くなくなります。ハ行上一段がなかったとすれば、上一段の動詞においても、一つの仮名に二類の別のあるものは、すべて甲の類を用いるということが言えるのであります。
 以上申したような、或る仮名の甲類はいつも他の仮名の甲類と相伴い、乙類はいつも乙類と相伴って同じような場合に用いられるということは、活用以外の場合にも見られるのであります。例えば「タケ」(竹)なら「タケ」が「タカムラ」(篁)となって「ケ」が「カ」に変ります。これと同じような現象が「へ」にも見られる。「うへ」(上)が「うはば」(上葉)になる。「メ」も「マ」になります。「天《アメ》」が「天《アマ》」になる。こういう音の変化があります。この「カ」「ハ」「マ」にかわる「ケ」「へ」「メ」は、いずれも乙の類に属するもので、四段已然形と同じ形であります。また、「キ、ヒ、ミ」も「月《ツキ》」が「月夜《ツクヨ》」となり、「火《ヒ》」が「火中《ホナカ》」となり、「神《カミ》」が「神風《カムカゼ》」となり、「身《ミ》」が「むくろ」(骸)となり、「木《キ》」が「木立《コダチ》」になります。こんなに「ク(またはコ)、ホ、ム」などに変ずる「キ、ヒ、ミ」は、皆揃って乙類に属します(上二段の未然・連用と同音)。かような場合にも、同じ仮名の二つの類の中の或るきまった一つがいつも相伴って出て来るという現象があるのであります。
 十二の仮名の中、右に述べた「キ、ヒ、ミ、ケ、へ、メ」以外の「コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ」においても大体、右のような現象があったらしく、やはり甲乙二類に分れるものと思われます。
 以上のような現象から考えて見ると、これらの仮名に属する各類は、それぞれ互いに違った音であったとは思われますが、甲と名づけた諸類、また乙と名づけた諸類には、その音同志の間に、音として何か共通のものがあったろうと思われるのであります。そうして活用の例から見ますと、甲と乙との違いは五十音図における同じ行の中での段の違いであるらしく思われます。四段の活用語尾の「カ、キ、ク、ケ」やカ変の活用語尾の「コ、キ、ク」が同じ行での段のちがいであると同様に、「ケ」の甲と「ケ」の乙とがカ行四段の命令形と已然形とにあらわれて来ますから、「ケ」の甲乙二類の別も、やはりカ行の中での段の違いであろうと考えられます。「キ」は、その甲と乙とが同じ語の活用語尾として用いられることはありませんが、四段においては、「キ」の甲が連用形として、未然形の「カ」、終止形の「ク」と共に同じ語の活用にあらわれて来ますし、「キ」の乙が、上二段活用の語尾として、終止形の「ク」と共にあらわれて来ますから、これもカ行の中の段の違いと思われます。その他「ヒ」「ミ」の甲乙二類もこれと同類に考えられます。そうすると、四段活用は実は古代では五段になります。
[#ここから二字下げて表]
カ行四段ハ行四段マ行四段[#表ここまで]
 そうして、十二の仮名はすべて甲乙の二類にわかれるのですから、すべてこれを五十音図式にまとめると次のようになります。
[#ここから二字下げて表]
ア行カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行[#表ここまで]
[#ここから著者注、五字下げ小文字]
濁音のある行は、濁音も同様であります。
『古事記』では「モ」も「モ(甲)」「モ(乙)」の二つにわかれます。
[#著者注ここまで]
 かように、カ行が最も多くって八段、ハ行・マ行がこれについで七段、ただし『古事記』では「モ」が甲乙に分れますから、マ行は八段になります。サ、タ、ナ、ラの四行は六段で、ア行とヤ行が五段、ワ行が四段となります。これを全部収めようとすれば、五十音図のように五段では足りず、八段にしなければならないことになります。しかし行によって段の多少がありますから、段の少ないものは穴をあけておくか、さもなければ、これまでの五十音図のように、同じ字を二箇所に出して穴をうめるかですが、活用の説明には同じ字を出した方が便利だろうと思います、
 さて、右の甲と乙との違いが、同じ行での段の違いであるとしたなら、その発音はどうかと言いますと、最初に来る子音、すなわちk、t、n、m、r、yなどの違い
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