桜花を詠める句
(古今女流俳句の比較)
杉田久女
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近代女流俳句は、大正七年以降全国的に長足の進歩をとげているのであるが、しかも尚お、閨秀の和歌に較べて、はるかに下位に取扱われ、閨秀歌人が自由に自家の歌集を世にとい、一般民衆と接触があるに反し、女流俳句は殆ど近代文芸のらち外に置かれているかの感がある。
たまたま俳句集が出版されても、俳句を作る俳人の間によまれるのみで、一般民衆とは全然没交渉であり、如何なる女流俳句があるかさえ殆ど知る人のないのは遺憾に堪えない。
よし女流俳句が個々の力は弱くとも、珠玉の句もあまたあり、必ずしも現代女流の和歌と対比して、甚しく優劣があるとは思われない。
中小学校の教科書等にも、元禄天明の女流俳句がのせられているが、純文学的に価値のひくい千代女の朝顔の句や、すて女の雪の朝二の字二の字句が、女流俳句のすべてであるよう、いつ迄も印象されつつある現状から、も一歩現代女流俳句がどんな所まで進み来たったかという事を、世人に知らしめたいものである。
エジプトやギリシャの古典が研究される一方、近代的な芸術が是非我々に必要である如く、現代人には近代女流俳句の息吹をも少し理解せしめたい。
ともかくも女流俳人が全国的にひたすら堅実な歩みを続けてゆく努力は、やがて純正な女流俳句の金字塔を築きあげる永遠の礎ともなり、女流俳句の位置を高め、必らず完成の域へ到達すべき事を、私は確信するものである。
どうか一丸となって、わが大正昭和の女流俳句を永遠に光輝あらしめたい。
近代女流俳句というものの真価を識者にいささかでも認めて頂きたい。
私が、未熟な自分自身をも顧ず、古今の俳句の本を少しばかりあつめ、対比研究して見る心持になったのも、そんな事を日頃から痛感している為めであった。
而し私の一方ならぬ多忙と浅学、専門的に系統だった研究考察は到底覚束ないが、ただ古今の句を比較して毎号素人らしい研究をつづけて見たく思っている。
他日何人かの女流俳句研究の資料にでもなれば、それで私の小さい希望は足るのである。
さて、
花のさかりも近づいたが、私はかの、
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青丹よし 寧楽の都はさく花のにほふがごとく今さかりなり
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寧楽朝を桜花になぞらえて謳歌した万葉歌を日頃から愛誦している。
桜花の美は百花を圧して、ふじやま[#「ふじやま」に傍点]や歌麿北斎と共に世界的となり、ワシントンの空にさえ咲き匂う時代となった。
願わくば花の下にて我死なんとさえうたった歌人もあるのに、我さくらの国の女流俳人はこの花をいかに観じ、いかにたたえているであろうか?
名高い秋色桜の事をおもいうかべつつ、私は興味をもって、古今の俳書から少しばかり花の句をあさって見た。
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山桜散るや小川の水車 智月
かち渡る流早しや山桜 かな女
あふ坂や花の梢の車道 智月
これを見てあれへはゆかん山桜 りん女
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数年前の春だった。寂光院へいそぐ道すがら、次第に山深くいにしえの大原御幸道にわけ入った時、ふと傍らの渓流に一本の山桜がうす紅の葉をかざして咲き傾いているのに気がついた。そのほとりには古びた水車が、のどかな水音をはじき返し花の木かげには、刈り束ねた柴が、落花をあびて置き去られたまま、あたりに杣の影もなく、木深いところから小禽のねがきこえてくるばかりだった。
智月の「山桜ちるや」の句もかかるもの静かな山川の景色らしく、句風もまことに美しい。
逢坂の句の方は、ゆくてに満開の山桜を点出しその梢のあたりに車道が見えているというので、しいて車を見せなくともよいが、ひなびた牛車か柴つむ車を前景として描き出す山路の花の絵には、花をかざして、ひねもす遊びくらした時代ののどかさがある。此二句、こせこせした現代離れがしておおまかさの中に、却って美しさを見出すのである。
情緒主観の句が殆ど大部分をしめている、元禄時代の句としてはかなりしっかりした叙景句として価値をみとめる。かな女さんの、山川を徒歩で渉るいう句も才気が見え、さすがに大正女流中の最古参として手馴れたものである。この古今の対比はまず持というところであろう。もっとも之は、古今の価値を断定する蘊蓄をもたない、私一個の感じを述べるに過ぎない。
日田のりん女の句はこの花を見てから、あの谷間に見えている花の辺りにも行って見よう、という即興の句、其当時としては佳句の方で、蕪村の玉藻集にものせられたのかしれぬが(玉藻集は蕪村編ではなく死後門弟の編輯したものであるとの説もあるが左様なせんさくは茲では一切しない)、これでは格別山桜の景色もういてこず、時代を超越しての価値もない様だ。
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是でこそ命おしけれ山桜 智月
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智月の前二句の叙景句に比べると此句は美しい山桜の咲いているのを眺めてこれでこそ命はおしいもの。長いきは有がたいもの。何だか智月おばあさんのこんな繰言を聞いている様で、何の詩感も味う事が出来ない。
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入相の鐘にやせるか山桜 智月
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山寺の鐘のねにさそわれて花のおびただしく散りいそぐ梢の有様を鐘にやせるかと主観的に形容したところ。美の把握が不足し、感興の燃焼がまだ充分とぎ出されていないので、浅い句となっている。
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遠山に見えゐし花も散りにけり
さしながら早くも散るや山桜 和香女
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山づとに折りとってきたのか、山桜の花をさしている。その膝に、畳に、はらはらと早くもちりかかる花びらのつつましさ、嫩葉の色。山桜でこそ一層なつかしく感じられる。朝夕遠山の木の間に眺めくらした桜もいつしか散ってしまい嫩葉の色がもえ出した晩春の眺め。いずれも山桜の特性を写した句で、りん女の句より、ずっと感じが深い。元禄天明の古句が、山桜に他のものを配して一句を構成しているのに比し近代の此二句はただ山桜そのものの美しさなり実相を写生しているところに、差違がある。
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木樵より他に人なし遅桜 多代女
みささぎや松の木の間の遅桜 砧女
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多代女の句にはまだ一幅の絵としても描き足らぬ力弱さがあるが。一方山陵の多いい堺地方にすむ作者は、翠岱の木の間をつづる遅桜を描いて、晩春の詣でる人も少いみささぎの森厳な空気をよく出している。
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逢坂の関ふきもどせ花の風 すて女
女とていかにあなどる花の風 簪
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簪はたしか遊女だった様記憶する。女とていかにあなどる[#「女とていかにあなどる」に傍点]という所。圧迫されつづけた封建時代の、しかも特殊階級の籠の鳥たる日頃のうっぷんが此句に迸しっている。花風に裳をけ返しつつからかい気味の好き者共を尻目にかけ、柳眉をあげている、おきゃんな女性。女であるため[#「女であるため」に傍点]に二言目には「女なんか[#「女なんか」に傍点]」と侮られ、軽く扱われるのは昔も今も変りはない。しかし簪の心境は別として此句は、花の風[#「花の風」に傍点]が比喩の様にもきこえ、又主観もろこつ過ぎて何等詩的な感興をひき起こさない。すて女の逢坂の関吹きもどせもほんの興味丈の浅い句風の様私は思う。
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花の風なげひろげたる筵かな ひろ女
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同じ花の風乍らこの近代句は、主観を弄さずただ光景を写生している。花かげに投げひろげた花見筵にも大地にもたまたま颯と花の風が吹きおろせば花片は吹雪の如く一しきりそこら一面をましろくなす。時には小つむじが起って落花をしきりにうずまき移るという様な光景である。昔の二句と比較してこの句の方が遙かに花の風というものを如実にうつし出している。
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夜嵐や太閤様のさくら狩 その女
ちぎれおつ牡丹桜の風雨かな 沼菽女
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閨中の美女をあつめて豪華をつくした太閤の桜狩も、花の盛りも一夜の嵐にむなしくなったと詠じたものか、すきものの太閤を諷したものか。よく判らぬが、兎に角桜花のらん漫たる感じは、桃山芸術を生み出した豊太閤の豪華な印象より他に比肩すべきものはない。大時代な句として面白くも覚える。一方、烈しい風雨にもまれてま盛りの牡丹桜の花房が、ぽたぽたとちぎれ飛びおつ、妖艶さ、美しいものの傷き易さ。花一房の風情を目に見る様に描き出した近代句と比較して取材表現共に時代の距離を味いたい。元禄時代の句が夜嵐や太閤様を配してさくら狩を構成しているのに反し、現代の句は牡丹桜そのものの風雨にもまるる有様を直叙している。
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花疲れたうべともなき夕餉かな 八千女
窓下に座りくづれて花疲れ 喜美子
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花疲れなどいう題は、享楽的な元禄の女性にありそうでいて案外近代女流のものらしい。ひねもすの刺激と歓楽につかれて花衣もぬぎあえず、夕餉さえたうべたくもなく窓下に座りくずれて、尚もゆめの名残を追想しているかの如き、夕ぐれの中のほお白いかおばせ。
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土手につく花見づかれの片手かな より江
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土手草につく花見疲れの片手。共に近代人ならではえがき得ぬ情景なり気分なりの細やかさ。
女らしい感情をぬきにした中性句にも勿論価値はあるが、女性としての真の佳句は、やはり女として匂いの高い句である様に思う。ことに百花の女王たる桜のうるわしさを称えるには。
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うたゝねやめさめて畳む花衣 波留女
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十二単の昔から元禄の花見小袖にいたるまで、日本女性のキモノはいともうるわしい。ことに桜のかげを逍遙し、花をめづるには、曲線のしなやかな花衣こそ最もふさわしいもの。
此句、うたたねからめさめて、ぬぎすてた花衣を畳む、女性の黒髪にも、まだ花びらのひと片や二ひら残っていそうにも思われ、花衣の色どりも匂やかに偲ばれる。
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夜桜を見てきて雨となりにけり 三千女
欄干に夜ちる花の立ち姿 羽紅
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元禄の羽紅の句。前書によって、光源氏の君が、落花のちりこむ高欄のほとりに佇んで、朧月夜の内侍の許へ忍ぼうとしてでもいるかの絵姿を思い浮かべるのであるが、余りに美しい絵そら事よりは、事柄は平凡でも、京の夜桜を見てきて雨となったという、静かなうるおいのある現代句の方に、親しみを覚えるのである。而し羽紅の句は、確かに才はじけた、美しい元禄の佳句である、と思わるる。
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花少し散つて晴れけり朝曇り 多代女
初花や一木の中の晴れ曇り 同
花に月どこからもれて膝の上 同
さ筵に這ひ習ふ子や花のかげ 同
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多代女の之等の句は近代写生の中へ交ぜても、さして遜色ないと思う。此人は奥羽にすみ、元禄の秋色や千代に比して世間的名声はじみであるが、其句集を見ると、中々かっちりした、佳句が沢山ある。天明の女流中では有数の作家である。
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暁や桜がもとの捨火燭 星布女
あさぼらけ霞にしづむ桜かな あふひ
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榎本星布女は天明第一の女流。あふひ夫人は大正初期から、かな女氏につぐ老練な作家。共にあけぼのの桜を題材として、片方は次第次第に明けしらみゆく花をうたい、他方はなおもこ[#「もこ」に傍点]として霞になずむ桜花をたたえて共に清楚な句境である。星布の力づよい句風よく近代女流俳句の塁をますに足る。
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