かけ、柳眉をあげている、おきゃんな女性。女であるため[#「女であるため」に傍点]に二言目には「女なんか[#「女なんか」に傍点]」と侮られ、軽く扱われるのは昔も今も変りはない。しかし簪の心境は別として此句は、花の風[#「花の風」に傍点]が比喩の様にもきこえ、又主観もろこつ過ぎて何等詩的な感興をひき起こさない。すて女の逢坂の関吹きもどせもほんの興味丈の浅い句風の様私は思う。

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花の風なげひろげたる筵かな  ひろ女
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 同じ花の風乍らこの近代句は、主観を弄さずただ光景を写生している。花かげに投げひろげた花見筵にも大地にもたまたま颯と花の風が吹きおろせば花片は吹雪の如く一しきりそこら一面をましろくなす。時には小つむじが起って落花をしきりにうずまき移るという様な光景である。昔の二句と比較してこの句の方が遙かに花の風というものを如実にうつし出している。

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夜嵐や太閤様のさくら狩  その女
ちぎれおつ牡丹桜の風雨かな  沼菽女
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 閨中の美女をあつめて豪華をつくした太閤の桜狩も、花の盛りも一夜の嵐にむなしくなったと詠じたものか、すきものの太閤を諷したものか。よく判らぬが、兎に角桜花のらん漫たる感じは、桃山芸術を生み出した豊太閤の豪華な印象より他に比肩すべきものはない。大時代な句として面白くも覚える。一方、烈しい風雨にもまれてま盛りの牡丹桜の花房が、ぽたぽたとちぎれ飛びおつ、妖艶さ、美しいものの傷き易さ。花一房の風情を目に見る様に描き出した近代句と比較して取材表現共に時代の距離を味いたい。元禄時代の句が夜嵐や太閤様を配してさくら狩を構成しているのに反し、現代の句は牡丹桜そのものの風雨にもまるる有様を直叙している。

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花疲れたうべともなき夕餉かな  八千女
窓下に座りくづれて花疲れ  喜美子
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 花疲れなどいう題は、享楽的な元禄の女性にありそうでいて案外近代女流のものらしい。ひねもすの刺激と歓楽につかれて花衣もぬぎあえず、夕餉さえたうべたくもなく窓下に座りくずれて、尚もゆめの名残を追想しているかの如き、夕ぐれの中のほお白いかおばせ。

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土手につく花見づかれの片手かな  より江
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 土手草に
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