せられないやうな鍵は持つて居りません。」と彼女が執拗に答へた。彼は強ひて自分の気持ちを抑へながら云つた。
「昔、ある天才が自分の書いたものを真珠を鏤《ちりば》めた箱に入れて密《そ》つと藏つておいたと云ふ話がある、そんな気持ちはお前にはわかるまい。」
「それはお噺《はなし》として承れば美しいことかも知れませんわね。」さう云つて彼女は静かに微笑んだ。
それを聞くと道助は遅緩《もどかし》さに堪へられなくなつて、「馬鹿、お前にはわからない。」と叫んで横を向いてしまつた。彼女はちらと追窮するやうな視線をそれに向け、そのまゝ俯向《うつむ》いて編物の針を痙攣的《けいれんてき》に動かし初めた……
然し暫《しばら》くさうして口もきかないでゐると、道助は何かしら淋しくなつて来た。で彼は遂々《とう/\》銭入れの中から白く光る小つちやな鍵をとり出して彼女の膝の上に投げやつた。
「おまへには恰度《ちやうど》好い玩具《おもちや》だ!」
「えゝえゝ大人しく遊びますわ。」急にさう気軽に云つて、彼女はそれを帯の間へ蔵《しま》ひこんだ。道助は忌々《いま/\》しさうにそれを見た。その手箪笥の引出しには彼の独身時代を淡く色つける四五百通の手紙と彼が今日昼読み返した旧い原稿とが這入つてゐるのだつた。
五
二三日道助は創作に没頭した。それが殆《ほとん》ど半ば程進んだ頃のある曇つた日の午後。
彼はもう何枚目かの原稿紙を破り棄て、低く垂れた空へ疲れた眼を見据ゑてゐた。彼女は彼女でその傍に少し膝を崩して坐り、当のない憂欝に引き込まれながら、先刻道助が癇癪《かんしやく》を起して物置きの中へ抛《はふ》り込んだ小鳥の鳴き声を追つてゐた。まるで彼等の生活は、その時硝子瓶の中へ閉ぢこめられたやうなものだつた。音、光、色彩、運動、そんなものが凡《すべ》て自由性を失つてしまひ、たゞ白けた得体の知れぬ現実がぐんぐんと押し迫つてくる……
道助は額の汗を拭いて立ち上つた。それを見ると彼女も立ち上つた。道助は静かに玄関へ出た。すると彼女も密《そ》つとついて来た。彼は振り返つて彼女の眼を見た。その鞏膜《きようまく》が変に光つてゐる。
「おい、俺は少し散歩するよ。」と彼が小声で云つた。
「妾も参ります。」と彼女も小声で答へた。
「お天気の所為《せゐ》かな。」と道助は歩きながら考へた。
暫《しばら》くゆくと彼は跫音《あしおと》がちつとも聞えないのに気がついた。で彼は愕然《がくぜん》として背後《うしろ》へ振り向いた。そこに彼女がほんの一尺計り離れて彼に憑《つ》いてるやうに歩いてゐる。
「あゝ俺は少し頭を使ひ過ぎる。」さう道助は思つた、で彼は高声にお饒舌《しやべり》を初めた。
「おい俺は豚を二三匹飼はうと思ふよ。」と彼は妻に云つた。
「豚、この街の真中で。」と彼女が闇《くら》い顔をして反問した。
「あゝ、よく光る太陽の下で、豚と一緒に駈け廻り、ふざけ合ひ、寝つ転がり、臀《しり》を叩き、ああおまへ豚の皮膚の色を知つてゐるかい。」と道助は調子に乗つて云つた。
「まあ厭!」
ふいと道助は、真白い太つた女の両腕が、彼の眼の前に大きく拡げられてゐる幻を見た。「とみ子! たしかさう云つたな、あのモデル。」と彼は思はず呟《つぶや》いた。
「えゝ」と云ひながら、彼女が探るやうに顔を寄せた。その引き締《しま》つた頬を見ると、道助は急いで眼を背向《そむ》けて少し速足に歩きだした。
彼は歩きながら今度は、いつか懇意な医者から聞いたある若い男の話を思ひ浮べた。その男は小さい時から音楽に対して殆ど狂的な興味を持つてゐた。それが或る日その医者を訪ねて来て、自分は音楽研究のために二三年|独逸《ドイツ》にゆきたいと思ふが少し調子が変だから精神鑑定をやつてくれと云つた。で医者が容態を尋《たづ》ねると、自分には今ものの形と音との区別がハツキリとつかないと云ふのである。例へば一つの茶碗を見ると、すぐに彼の耳に瀬戸物の打ち合ふ音が聞えて来て、茶碗そのものの形は、何か斯う空に懸つた朦朧《もうろう》とした曲線とでも云ふやうに音の裏に浮き上つてしまふと云ふのであつた……
道助がそんなことを考へ続けてゐると彼女が強く手を引張つた。
「その顔色はどうしたんだ。」と彼が苛々《いら/\》と尋ねた。
「あなたの顔も蒼白いのよ。」と彼女が云つた。
雨が落ち初める……彼等は立ち止つた。
「おい、」とその時晴やかな声が響いた。道助は急に明るい光線が頭の上に落ちて来たやうに思つた。そこに遠野が画布を抱へて、大股に彼等の方へ近づいて来るのだつた。
六
食卓の上に青いシェードをかけた電気のスタンドが燈《とも》され、その明るい光線の中に、遠野と道助とが少し興奮して坐り、シェードの蔭には彼女が澄んだ瞳をぢつと彼等の方へ見開いてゐた。
「久振で愉快な晩餐《ばんさん》をやつた。」と遠野が云つた。
「君なんか自由だから始終|旨《うま》いものを漁《あさ》つてゐるのだらうからな。」
「いや、余り自由ぢやないよ。」
「そんな筈はない。何と云つても独身時代が好いさ。」
「奥さんに叱られるよ、そんなことを云ふと。」
「なあに、ほんとさ。」
「然し僕は正直のところ、結局意志の問題だと思ふな。一つの意志さへあつたら、結婚しようが独身だらうがさう問題ぢやないと思ふのだ。」
「そんなことを考へたよ、僕も。然し結婚して見るとわかるよ。」
「そんな筈はない。」
「だつて二人になると、お互の間の闘争と妥協とで精一杯だ。正直になれば喧嘩《けんくわ》だ。狭くなれば探り合ひかマヤカシだ。意志なんてものを認める余裕はありはしないよ。」
「君は最も平凡な一面を忘れてゐるのだ。」
「無いものは忘れやうがないよ少くとも僕には。」
「君は余りに拘泥し過ぎる。」
「君は余りに肯定し過ぎる。」
「ぢや君は結局君達の生活を否定しようとしてゐるのだね。」
「少くとも君が考へてゐるらしい平穏な、一致とか互助とか云ふ意味の生活は僕には遠いね。」
「子供が出来ても矢張り君はそんなことを考へてゐるだらうか、新しい生命の創造と云ふことが起つて来ても矢張り君はそんなに個人主義者かい?」
「一層ひどくなる許りだ。それはむしろ結婚生活の破壊だもの。」
「君のやうな利己主義者にかゝつちや叶はない。」
「僕は利己主義者ぢやない。僕は真面目に正直なことを云つてゐるのだ。」
「わからないな、僕には。」
遂々《とう/\》遠野は投げるやうにさう云つて、傍に黙つて聞いてゐる彼女の方へ笑ひかけた。然し彼女の視線は凍りついたやうに一つ処を動かなかつた。
床の壁に遠野が今日持つて来た道助の肖像画が立てかけてあつた。シェードに蔽《おほ》はれた光線が恰度《ちやうど》その額《ひたひ》のところまで這ひ上り、そこの黄色を吸ひとつて石のやうに白く光らせてゐる。道助はそれを見てゐた。
「君、あの顔は少し冷た過ぎやしないか。」と彼は遠野に云つた。それを聞くと彼女はふと皮肉な微笑を口許《くちもと》に浮べた。
「そんな筈はないんだが。」さう云つて遠野はちよつと考へた。
「いゝえ、神経質で冷淡でそして何処《どこ》か引込思案な気性がよく出てゐますわ。」が彼女が少しきつい調子で口を挾《はさ》んだ。
「あゝこれは大変なところを掴《つか》まれたものだ。」遠野が笑ひながらさう云つて道助の顔を見た。道助は少し敵意を感じてぢつと眼を伏せた。
「実はあれを描いた時、僕は片一方で裸体画の制作にかゝつてゐたのだ。」と遠野がすぐに説明した。
「それが馬鹿に好い調子が出てね自分でも大変愉快だつたのだ、ところが君のあれにかゝると、怒るかも知れないが妙に気持ちが違ふんだ。何か斯《か》う全く相容れぬ力に犯されてるやうでね。つまりそんな意識が働いて多少誇張したことになつたかも知れないんだ。」
七
その制作と云ふのは、この間遠野が画室で逢つた例のとみ子をモデルにしたものに違ひないと道助はすぐに思つた。すると奇体にも彼の眼の前へそのとみ子の影像が不可思議な鮮かさをもつて現はれてきた。
――彼女の指先の紅らみの中に浮き出てゐた細《ほつそ》りとした指半月《つめのね》、豊な彼女の唇を縁づける擽《くすぐ》るやうな繊細な彎曲、房々と垂れた彼女の髪の微《かすか》な動揺と光沢、彼女の首筋から両肩へかけての皮膚の純白さと膨《ふく》らみ、彼女の笑凹《ゑくぼ》、彼女の歯列び、とり別《わ》けて、その魂の火が燈《とも》つてゐるやうな大きな瞳――
道助は立ち上つて縁側の籐椅子《とういす》に腰をおろした。
「奥さんのも一枚描かして貰ひませうね。」と遠野が云つた。
「えゝどうぞ、でもそんな風に誇張をなすつちや厭ですわね。」と彼女が答へた。
「この表情の乏しい女の何処に興味があるのだらう。」と道助は傍で考へた。
「大丈夫ですよ。それに奥さんのを描いとくと、いつかそれが里村君の先刻の結婚論に対する立派な反証になる時が来ると思ふんだ。ねえ君。」
「大変な曰《いは》くがつきますわね。でもそんなら妾描いて頂くわ、」
「反証つて?」と道助が訊《き》いた。
「つまりほら、家のお祖父《ぢい》さんはあんなに若かつたのだとか家のお祖母《ばあ》さんはあんなに美しかつたのだと話される時が来ると云ふんだ。」
「つまらないことを云つてゐる。然《しか》しそれなら君は何故結婚しないんだ。君の云ふやうだと夙《とつ》くに結婚してゐて好い筈ぢやないか。」
「時機と相手が出来次第だよ、僕は結婚を否定しないんだからな。」と遠野は皮肉な微笑を浮べて答へた。
「君、あの何とか云つたモデルはまだやつて来るのか?」と道助がそれに反撥するやうに云つた。
「とみ子か、来るよ。今また一枚大きなものにかゝつてゐるのだ。」と遠野は平然と答へた。
「何処に住んでゐるのだ、あんな女は。」
「あんな女はB街に住んでゐるんだ。」
「大変遠いぢやないか。」
「遠くとも来るのさ。それはさうと何なら一度連れてつてやつても好い。」
「あら貴方その人の家までご存じなのですか?」
「来いと云ふから一度行きましたがね。」さう云つて遠野は笑ひながら少し赤くなつた。
「若いんでせう、その人。」と彼女が執拗《しつえう》に訊ねた。
「二十歳《はたち》だつて云つてますがね。どうだかわからない、ねえ君。」
「いや十五六かと思はれる時があるよ。」
「皮肉かいそれは。」
「ほんとさ。」
「驚いたね、僕の考へとは十も違ふ。」
それを聞くと彼女が笑ひ出した。
「年がいつてゐてもあんな気持ちだと好いな。」そんなことを道助は仕方なく呟《つぶや》いた。
暫《しばら》くして遠野は立ち上つた。彼女は戸口まで送つて出た。「奥さんほんとに描きに来ますよ。」と遠野が云つた。「どうぞ」と彼女が答へた。「好いだらうな。」と遠野は彼にも云つた。「うん」と道助はぶつきら棒な返事をして空を見た。雪が歇《やま》つて薄明かりのさしてる中を長い雲が走つてゆく。
八
次の日、ふと道助は昨日腹立ち紛《まぎ》れに物置の中へ抛《はふ》り込んでそのまゝになつてゐる小鳥のことを思ひ出した。もう昼近くのことで磨《す》り餌《ゑ》をやる時刻はとつくに過ぎてゐたのだ。彼は慌てて物置の戸を開いた。
壁の節穴から一条の光線が差し込んでゐる。小鳥はその方へ首を伸ばすやうにしてぢつと泊まり木にとまつてゐた。道助は密《そ》つと側に寄つて籠を取り上げた。然し小鳥はまるで放心したやうに身動きもしない。嘴《くちばし》で掻き乱したものか細かい胸毛が立つて居り、泊り木に巻きついてゐる繊細《かぼそ》い足先には有りつ丈けの力が傷々《いた/\》しく示されてゐる。
道助はちよつと籠をつゝいた。とすると小鳥は二三度呼吸するやうに翼を拡げた。その動作が如何にも緩漫《くわんまん》で、まるで焦点の合はぬ物体を無理に二つ重ねたと云つたやうな不自然な感じを起させた。
道助は妻を呼んだ。
「闇《くら》かつたからきつと眠り過ぎたのよ。」と彼女が云つた。
「お腹が減つてゐるんだよ、何故餌をやつて呉れないんだ。」そんなことをつけ/\云
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