静物
十一谷義三郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)喙《くちばし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一層|拘泥《こうでい》し初めた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)細々《こま/\》と
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一
家を持つて間のない道助夫妻が何かしら退屈を感じ出して、小犬でも飼つて見たらなどと考へてる頃だつた、遠野がお祝ひにと云つて喙《くちばし》の紅い小鳥を使ひの者に持たせて寄来《よこ》してくれた。道助はその籠を縁先に吊しながら、此の友人のことをまだ一度も妻に話してなかつたのを思ひ出した。
「古くからの親友なんだ、好い人だよ。」と彼は妻に云つた。
「では一度お招《よ》びしたらどう。」と彼女が答へた。道助はすぐに同意した。彼女はその折りに食卓に並べる珈琲《コーヒー》茶碗や小皿のことなどに就て細々《こま/\》と彼に相談し初めた。
二三日して彼は郊外にある遠野の画室を訪ねた。明るい光線の満ちた部屋の中に、いつの間に成されたのか新しい制作が幾つも並べられてゐた。それを見てゐると道助は急に自分の影が薄れて行くやうな苛《いら》だたしさを覚えた。
「君、これは光線の具合だらうか、」と遠野が這入《はい》つて来るなり彼の顔を凝視して云つた、「どうも君の顔が変つたやうな気がする。」そして彼は画室の隅に立てかけてある、八分通り出来上つた道助の肖像画の方へ振り返つた。
「どうしてだらう、あれを描いて呉れてた時分からまだ半月も経たないよ、」と道助が微笑《ほゝゑ》みながら答へた。すると遠野は急に道助の肩を揺すつて
「あゝ君は幸福過ぎるんだ。」と叫んだ。
「君は大変な人相屋だ。」と道助は皮肉な気持ちで答へた。遠野は故意《わざ》とお道化《どけ》た風に点頭《うなづ》きつゝ棚から口の短いキュラソウの壺を取り下ろした、そしてそれを道助の洋盃《グラス》へ酌《つ》ぎながら
「兎も角君も落ちついたと云ふものだ。」と云つた。それは、その頃まで道助の周囲を取り捲《ま》いてゐた空気の明暗をよく呑込んだ言葉だつた。然しそれを聞くと、道助は却《かへ》つて自分の気持ちが妙に硬《こは》ばるのを感じた。で彼は窓の外へ眼をやつた。
「何か感想がありさうなものだな、」と遠野は笑ひながら云つた。
「話さうと思へば無くもないさ、然しそんなことは馬鹿げてる。」と道助は呟《つぶや》くやうに答へた。
「その馬鹿げたことを訊いてるのさ。」と遠野が今度は椅子の上に反り返つてのびをしながら云つた。そしてすぐに彼は「実際、面白いことはさう沢山無いよ。」と附け足した。その調子が可笑《をか》しくて道助は思はず噴き出した。それに連れて遠野もお腹を抱へた。
するとその彼等の声に応じるかのやうに扉を叩《ノック》する音が静かに響いて来た。道助は立ち上つた。
「いゝんだよ。」と云ひつゝ遠野はまたキュラソウの壺を取り上げた「でどうだ。あの鳥は?」
「あゝ失敬、彼女が大変喜んでゐるよ。退屈なものだから。それでね、是非一度君を招待しろと云ふんだ。」
「あゝその使ひに来てくれたのか、ありがたう、ゆくよ、奥さんにも逢つとかなくちやね。」
その時、劇《はげ》しく扉が明け放たれた。そして濃い空色のショウルを自暴《やけ》に手首に巻きつけたモデルのとみ子がつと這入《はい》つて来た。彼女は片手に持つてゐた花束を乱暴に床の上に投げ出して、どんとぶつかるやうに遠野の肩に凭《もた》れかゝつた。
「どの奥さんに逢ひにゆくのよ。」そして手を伸ばして遠野の前にある洋盃《グラス》を取り上げた。
二
「この紳士の奥さんさ。呑んだくれのトムミイ、」さう云ひつゝ遠野は静かに彼女の洋盃へキュラソウを酌いでやつた。
「あら、ご免なさい。」彼女はさう云つてちよつと道助の方へ頭を下げた。
「そして綺麗な方?」
「君のやうにね。」と少し酔が廻つて来た道助が口を挾《はさ》んだ。
「おや、ご挨拶ですこと。でもお大事になさるんでせうね。」
「それはもちろん、」
彼女はちらと揶揄《からか》ふやうな視線を遠野に向けた。遠野がすぐに云つた。
「然し君のやうに此麼《こんな》にぶく/\ぢやないんだとさ。」そして彼は真白な彼女の腕首をびしりと叩いた。
「ぢや古典派だ、流行《はや》らないのよ。」さう云ひつゝ彼女はちよつと遠野を睨《にら》まへた。彼等は噴きだした。
「君は何派だい。」と道助は訊《たづ》ねた。
「妾《あたし》や未来派さ。」と故意《わざ》と取り澄まして答へながら、彼女は遠野の膝の上でその豊満な身体を弛《ゆる》やかに揺《ゆ》すり初めた。
遠野は彼女のするがまゝになりながら、立て続けに洋盃を乾した、彼の眸《ひとみ》や唇に、時々ちら/\と何かが燃え上る、それを隠さうとするかのやうに、彼は細長い指を伸べて食卓の端を叩きながら低く唱ひ始めた……
その様子を見ると道助は少し堪へられなくなつて密《そ》つと椅子を離れた。そして先刻彼女が抛《はふ》り出した花束を拾ひ上げて、殆ど無意識にその花片《はなびら》を一つ/\むしり初めた。
「おいとみ子、一つダンスをやらう。」さう云つて遠野が不意に彼女の首筋を抱へて飛び上つた。
「ほら始まつた。」と云ひながらとみ子はちらと道助の方を見た。
「あゝ君は一つ囃子方《はやしかた》になり給へ。」遠野が道助に云つた。道助は漠然と微笑《ほゝゑ》みながらバネの弛《ゆる》んだ自働人形のやうに部屋の中を歩き廻つた。
恰度《ちやうど》部屋の真中へ天窓から強烈な光線が落ちてゐる。その中へ遠野ととみ子とは白い両手を握り合つてふら/\と立ち上つた。
「ほんとに踊る気かい、君達は。」と道助が訊ねた。それを聞くととみ子が崩れるやうに笑つた。
「踊《をどつ》たつて好いぢやないか。」と遠野も笑ひながら答へた。
「まるで君は日本にゐるやうぢやない。」と道助が云つた。
「そんなことはどうでも好いさ。」さう云つて遠野は強くとみ子を抱きかゝへた。
その時雲がよぎると見えて部屋の中がちよつと暗くなつた。それと共に、道助は何かしら白けた気持ちが自分を犯して来るのを感じた。
「おい、君は何を考へてゐるのだ。」と遠野が叫んだ。
「囃子方も看客も僕はご免さ。」と道助は吐き出すやうに云つた。
「ぢや貴方《あなた》踊らない?」さう云つてとみ子が彼の方へ大きく両手を拡げた。
それを見ると道助の気持ちは一層|拘泥《こうでい》し初めた。何か斯《か》う際立つて明るい世界の前に急に頑丈な扉が聳《そび》え立ち、その外に自分独り取り残されたと云ふやうな……あゝ道助は妻の顔を思ひ浮べてゐたのだつた!
「僕はもう失敬するよ。」
「どうしたんだ、急にまた、」と遠野が訊ねた。
「僕はもう享楽出来ないんだ。」と道助は明らさまに答へた。「意気地が無いのね。」と云ひつつとみ子が彼の背中をどんと叩いて遠野と顔を見合せた……
三
独身――制作――とみ子、その三つのものを結び合せて遠野のことを考へると、道助は自分が何かしら惨《みじ》めなものに思はれた。彼は或る時の妻の瞳を思ひ出し、また彼女の髪の震へを感じた。然し彼の心はもうそれらに対してまるで路傍の人のやうな冷静さに裏づけられてゐた。
彼はぢつとしてゐられない気持ちになつた。である日、手箪笥《てだんす》の底から彼が結婚前に書きかけてゐた自叙伝的な創作の原稿をとり出した。
「おい、これから少し仕事をやらなくちやならないんだ。」さう妻に云つて彼はその原稿を一枚々々読み返した。
「なあに、小説?」と云ひつゝ彼女が馴々《なれ/\》しくそれを覗《のぞ》き込んだ。
「見ちやいけない。」と彼は叫んだ。
「恐い顔。」と云ひながら彼女が眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「ちよつとあつちへ行つてゐてくれ。」と彼は押しつけるやうに云つた。彼女は少し蒼い顔をして隣室へ立つていつた。彼はそれを追ふやうにして間の唐紙に手をかけた。彼女がぢつと反抗的な視線を彼に投げる。彼は強《し》ひて笑顔を作りながらぴたりと唐紙を閉めた。そしても一度原稿紙を取り上げた。
彼の頭は暫くその上と隣室へと等分に働きかける、そして結局焦躁のために混乱してしまふ。
「こんな洞察のない、こんな上滑りのした空想ぢや駄目だ」とさう呟《つぶや》きながら、彼がそれをまた手箪笥の引き出しへ投げ込んで鍵を下ろした時、彼は裏口が明いて彼女の出てゆく気配を知つた。彼は巻煙草の吸口をぎゆつと噛み占めた。
あゝ今、彼の眼の先へ息の詰まる程の鮮さを持つた空想の世界が、何か魔術にでもかゝつたかのやうにすつと現れて来たら、彼はどんなに幸福だつたらう! 然《しか》し、彼の前には、実のところ空漠として煙が巻上るのみだつた。
道助は溜息をつきながら立ち上つた。そして何か遠くにあるものを求めるやうな気持で静に裏口を出た。
三四間ゆくと彼は急に忙々《せか/\》と歩き出した。「何処へいつたのだ、彼女は。」さう呟《つぶや》きながら。
「好いお天気でございます。」と声をかけつゝ牛乳屋の主婦《おかみ》さんが頭を下げた。道助はちよつと会釈《ゑしやく》をしてゆき過ぎた、「あの人の鼻はどうしてあんなに大きいのだ!」……
いくら行つても妻の姿は見えなかつた、そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちを苛《いら》だたしめた。彼はすぐに引き返した。
彼が荒々しく硝子戸《ガラスど》を明けると、仄暗い茶の間の鏡の前に、彼女が身動《みじろ》きもしないで坐つてゐた。彼は黙つてその傍を通り抜け書斎の真中へ仰向に身を投げだした。彼はぢつと眼を見開いた。しんとした中に眼に見えぬ力が執拗《しつえう》に彼を圧して来る。彼は身を刺すやうな憎悪を感じた。ビ・リ・リ・リ・リと叫びながら遠野のくれた喙《くちばし》の紅い小鳥が籠の中で跳上る。彼は立つて水を換へてやり、それからつか/\と茶の間へ這入つていつた。と涙が彼女の硬ばつた頬を伝ひ白い手の甲の上に落ちた………
四
同じ日の夜、道助は少々退屈を意識しながら彼女の前に坐つてゐた。彼女は用心深く彼の視線を外《そら》しつゝ何気ない世間話の中へ彼女の従姉《いとこ》の不幸な結婚の話を細々《こま/\》と織り込んでいつた。道助は「これは初めて聞いた」と云ふ風に時々彼女の方へ点頭《うなづ》いて見せながら、ぼんやりとそれを聞いてゐた。で最後に彼女が
「それであの人達が苦んでゐるのは、結局今更どうにもしやうのない秘密の世界をお互して作りあげてしまつた所為《せゐ》だと思ふのよ、」と云つて彼の眼を盗み見た時にも、道助は矢張り先刻からの退屈の惰力で「うん/\」とか何とか云つたきりだつた。夫《それ》を見ると彼女は硬い笑ひを浮べ乍《なが》ら
「つまり心の何処《どこ》かにちよつと忍ばせて置いた小つちやなことから大きな秘密が生れることにもなるのだわね。」と云つて今度は真正面《まとも》に彼を凝視した。
「あゝこれは遂々《とう/\》そんなところまで引張つて来たのだ!」さう考へながら道助は故意《わざ》と揶揄《からか》ふ様に「そしてその小つちやなことと云ふのは女の胸の方に忍びこんでゐることが多いんだね、第一女は隠すことを知つてゐるからな。」さう云つて笑つた。
「いゝえ、いゝえ、」と彼女はカブリを振りながら云つた。それから急に湧き上つて来る興奮に震へながら、
「あなたは妾に信頼して下さらない。」と細い声で云つてきつと口を緘《つぐ》んだ。道助は少し険《けは》しい眼つきをした。
「あなたは妾に見せられないものがあるのでせう、いゝえ、あの手箪笥の引き出しには何が蔵《しま》つてあるか、妾にはよくわかつてゐます。」
「秘密の城を築くと云ふのはおまへのことだ。」と道助は故意《わざ》と冷笑するやうに云つた。
「妾はあなたに見
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