ひながら道助は餌壺の手当をした。然《しか》し新しい餌が眼の前に盛られるのを見ても、小鳥は化石したやうに動かなかつた。道助は密《そ》つと鳥の胸に手をやつて見た。ふと自分の指先が大きな醜《みにく》いものに感ぜられる。
「おまへが見てやつてくれないからいけないんだ。」と道助はも一度妻に云つた。
「こんな処へ入れてお置きになるのがいけないのよ。」と彼女が云ひ返した。彼は鳥籠を彼女に押しつけた。
「死ぬんぢやないでせうね。」と彼女が少し懼《おそ》れを感じて尋ねた。
「死ぬに定《き》まつてるさ、こんな風ぢや。」道助は吐き出すやうに云つた。
「どうすれば好いのでせう。」
「どうすれば好いかな。」さう云つて彼はちよつと妻の顔を見て、そのまゝふいと書斎へ引き返した。
「何とかしてやつて下さらないんですか。」と彼女が背後から声をかけた。
彼は読みかけの書物をとり上げた。然し何かしら心が動揺してぢつと筋を辿《たど》つてゆくことが出来なかつた。で彼はすぐに書物を投げ出して隣室へ眼をやつた。
彼女は鳥籠を縁先に吊し何か口の中で歌ひながらそれを覗き込んでゐた。太陽が籠の目を抜けて彼女の顔に落ちそこに薄呆けた斑点を作つてゐる。道助は起き上つてまた彼女の方へ近寄つていつた。と少し籠が揺れ細い羽が風の中に掠《さら》はれてゆく。
「あゝ死ぬ/\」さう云つて彼は茶の間に置いてあつた帽子をとり上げた。
「何処《どこ》へいらつしやるのよ。」と彼女が詰《な》じるやうに云つた。
「何処へだか僕にもわからんよ。」
そして彼は彼女には構はないで外に出て、兎も角も電車の停留所の方へ歩き出した。
九
七つ目の停留所で道助は電車を降りた。降りるとすぐ彼は右手の小綺麗な小路へ曲つた。そしてショウインドウを覗きながらゆつくりと歩き出した。実はこれは彼には全く初めての街筋なのである。
彼には学生時代からそんな癖があつた。手拭と石鹸とを持つて兎も角も電車に乗るのである。そして幾つ目かの停留所で降りそこから第一番目の四ツ辻を右へ曲りその通りにある銭湯へ飛び込んでゆつくり身体を流して戻つて来るのである。退屈がりの彼はその道筋で出逢はした顔や聞いた話などに一つ/\ころも[#「ころも」に傍点]を被《き》せて喜んでゐたのだつた。
彼は路傍の小ざつぱりとした珈琲店《コーヒーてん》に這入《はい》つた。客は一人も無く暖炉台の上の蓄音器の傍に赤く塗つた鳥籠が置かれ、その中で目白が盛んに囀《さへづ》つてゐる。彼はちよつと家の小鳥と妻の顔を思ひ出した。然しそれもすぐ散漫な気持の中に溶け込んでしまつた。
「今日は出来るだけ幸福でなくちや。」とそんなことを考へながら、彼は熱い珈琲を啜《すゝ》つた。それから新聞をとり上げて一とわたり経済欄や政治欄に眼を通したが別に愉快なことも起つてゐないので今度は表の方へ眼をやつた。入口の扉が両方に明け放たれ、その間に葭簀《よしず》が吊下り、その向うに明るい往来が見えるのである。
ふとそこを青いパラソルをさした太り肉《じし》の丈の高い女が行き過ぎる。傘の青みが顔に落ちてよくはわからないが、色の白い眼の大きな女だと道助は思つた。と同じ瞬間に、その女のショウルと帯の色合ひと横顔の輪郭とがハツキリと彼の記憶に再燃した。それはモデルのとみ子に違ひなかつたのだ。彼は忙《いそ》いで払を済ませて外へ出た。そして六七間先にゆく彼女の後を追つた。
このまゝ後をつけて行つて見ようかそれとも追ひついて声をかけようか、そんなことを道助が思ひ迷つてゐる間に彼女は横町へ外《そ》れてしまつた。彼が小走りにその曲り角へ来た時、彼女は恰度《ちやうど》三四間向うの左手の格子戸の嵌《はま》つた家へ這入《はい》るところだつた、這入りながら彼女はふいと背後を振り返つた。道助は少し狼狽《うろた》へた。彼の姿は厭でも彼女の視線の中に入らねばならなかつたのだ。道助は仕方なく微笑んだ。それを認めたのか認めないのか彼女は無表情な顔をついと背向《そむ》けたまゝ格子戸の中へ消えてしまつた。
道助にはその家の表札を覗きにゆく丈けの元気が無かつた。で彼はたゞ遠くから二階の障子を見凝《みつ》めてこゝはB街ではない、従つてこれは、遠野が嘘をついたのでない限り彼女の家ではないとそんなことを考へながら暫く其処に立つてゐたのだつた。
すると驚いたことには、すぐに又その格子戸が開いて先刻のまゝのとみ子が、笑ひながら彼の方へ近寄つて来たのである。道助は不意を打たれて少し赧《あか》くなつた。
「お待ち遠さまね。」と彼女が冷かすやうに云つた。
「何も君を待つてやしないさ。」
「嘘をおつきなさい。」
「嘘ぢやない。ちよつと此の辺を散歩してたんだ。」
「何んでも好いから妾に随《つ》いていらつしやいよ。」さう云つて彼女は先に立つて、先刻道助が寄つた珈琲店のある方へ歩きだした。歩きながら彼女は探るやうな眼つきをして
「誰に訊いて来たの。」と云つた。
「誰に聞くものか。疑ぐり深いやつだな。」と道助が答へた。それを聞くと彼女は横を向いてちよつと狡《ず》るい笑ひを浮べた。
十
「今のは君の家かい。」と歩きながら道助が尋ねた。
「まあ妾にあんな家があると思つて。」
「あつたつて好いぢやないか。」
「ぢやあなた拵《こし》らへて下さい。お礼を云ふわ。」
「遠野に叱られるよ。そんなことをしたら。」
「奥さんにも叱られますわね。」
「ありがたう。今日は好いお天気だね。」
「ほんとに好いお天気ですこと。」
「時に、何処かへお伴をしようか。」
「お愛想が好いのね。」
「ほんとさ、奢《おご》るよ。」
「今日は駄目、三時に約束があるのよ。」
「あゝ案の通りだ。」
「ほんとなのよ。」
「それはほんとうでせうさ。」
「可笑《をか》しな人。」
「もうちつとパラソルをそちらへやつて貰ひませう。歩き難《にく》くつてしやうがない。」
「怒つたのね。そんなに速く歩かなくても好いわ。」
「実は僕も余りゆつくり出来ないんだ。」
「さうでせうとも。でお約束はどちら。」
「なあに、少し許り用をたして帰るんだ。」
「どんなご用だか。それはさうと貴方これから一時間ばかり妾の家へ寄つていらつしやらない。」
「折角だが止さうよ。お約束の邪魔をしちやいけないから。」
「ご挨拶ね。然し串談《じようだん》は止してほんとに寄つていらつしやいよ。ね好いんでせう。」
「暑いね。そんなに寄つて来ちや。」
「あら覚えていらつしやい。」
「おい/\、急にまた忙《いそ》ぎ出したね。」
「ご免なさい。妾も少し買物をしていかなくちやならないから。」
「いゝよ、わかつてゐるよ。で君の家は何処だつたつけ。」
「いえ、もうお招《よ》び致すやうなところではございません。」
「ほんとうに随いてゆくよこれから。好いかい。」
「どうぞご勝手になさいまし。」
「これは大変なことになつた。君のところはたしかB街だつたと思ふがね。」
「おや、知つてるのね。」
「知つてるさ。B街のとみ子。」
「B街のとみ子。然しそれぢや何だか雲を掴《つか》むやうね。」
「だから訊《き》いてゐるのさ。」
「ぢやきつといらつしやるのね。」
「嘘は申しません。」
「ではすぐこれから往きませう。」
「おい/\昼間だよ、手なんか引つ張りつこなしにしようよ。」
「なんて見得坊なんだらう、さあW行きが来たら乗りますよ。」
「然し君、もう二時過ぎだよ。約束の方は好いのかい。」
「好いのよ、これから帰つたら待つてゐるだらう。」
「おや、何んの為に僕を引つ張つてゆくのだ。」
「構はないのよ、遠野さんだから。」
「遠野、遠野かい、その約束と云ふのは。」
「どうしたの、馬鹿に驚くのね。」
「驚きやしないさ。然し……」
「何が然しなの。」
「今日は兎も角もよすよ。どうしても用の都合が悪いから。」
「あんなこと、ほらW行きが来たぢやありませんか。ではどうしても止すのね。」
「あゝ折角だけれど。」
「では沢山《たくさん》ご用たしをなさいまし。」
「さやうなら。」
「意久地なし!」
十一
翌朝道助は永く床にゐた。頭の中には夢の糟《かす》が一杯に詰まつてゐるやうな気がする。とみ子、妻それから今かゝつてる創作のプロット、そんなものがちぎれ/\に眼の前を駛《はし》る。そしてその間にウト/\と鈍い眠りを続ける……ふと彼は急に大きな明るいものに衝突《ぶつ》かつたやうな気がして眼を見開いた。玄関からこんな対話が響いて来る。
「奥さん、描きに来たんですよ。」
「あらほんとにいらつしたの。厭ですわね。」
「好いぢやありませんか、半時間|許《ばか》り坐つて下さいね。」
「ちよつと。里村を起して来ますから。」
「おや、まだ眠つてゐるのですか。」
「えゝ何ですか、昨日から大変気難かしくなりましてね。」
「どうしたのです、身体でもわるいんですか。」
「いゝえ、貴方に戴きました小鳥ね、あれが少し弱つてゐるのを気に障《さ》へましたのですか昨日午後ふいと外出致しまして、夕方|晩《おそ》くお酒をいたゞいて帰つて参りましたがそれきり碌《ろく》に口もきかないで寝《やす》んでるのですよ。」
何となく苦笑して聞いてゐた道助は少し不安を感じ初めた。遠野が何か云ひながら上つて来る気配《けはひ》がする。道助は蒲団を冠つた。
「起きろよ。」さう云つて遠野は道助の枕許《まくらもと》に立つた。その馴々しい態度に不快を覚えて道助は責めるやうな視線を妻に投げた。彼女は感じない振りをして微笑んだ。
「奥さんを描きに来たんだ、今頃の光線の感じがいつとう好いからな。」と遠野が構はずに云つた。
「ありがたう。描いてやつて呉れ給へ。」さう努めて穏かに云つて蒲団を冠つた。
「君はまだ寝るのかい。」と遠野が云つた。
「お起なさいよ。」と彼女も云つた。
「今日は一日寝るんだ。」と道助は駄々つ子のやうに答へた。それを聞くと遠野は口笛を鳴らしながら隣室へ出ていつた。
「真実《ほんと》にどこかおわるいの。」と妻が小声で訊《き》く。道助はぢつと他所《よそ》を見凝《みつ》めて答へない。彼女がそつと夜具に手をかけた。彼はそれをピシリと叩いた。彼女は黙つたまゝ頬を痙攣《けいれん》させて出ていつた。
「いつたい遠野は何のために今朝やつて来たのだ。」それを苛々《いら/\》と考へながら道助は跳ね上るやうに半身を起こした。昨日の酒の所為《せゐ》か頭が石のやうに重い。
「ぢや奥さんちよつと坐つてくれませんか。」と遠野が云ふ。
「妾今日は止しますわ。折角ですけれど。」と妻が答へる。
「そんなことを云はないで、ほんのちよつとの間ですからね。」
「でも妾何だか急に気分が勝《すぐ》れませんから。」
それを聞くと道助は寝巻の儘《まゝ》ふら/\と隣室へ這入《はい》つていつた。そして蒼白い笑顔を作りながら
「描いて貰ふんだ。何なら半裸体でポーズするさ。」と云つた。
彼女は撥《はじ》かれたやうに立ち上つた、そして遠野の方を向きながら少し慄《ふる》へを帯びた声で
「ではどうぞご面倒でもお願ひ致します。いつそ裸体の全身像を描いて戴きませうかしら。」さう云つて道助を見返した。彼は唇を噛《か》んだ。
遠野が微笑《ほゝゑ》みながら彼の肩を叩いた。その意味あり気な眼差《まなざし》を見ると彼は一層苛立つた。
「奥さんはとみ子ぢやないんだからな。」遠野は静にさう云つてクルリと背後《うしろ》を向きながら又口笛を鳴らし初めた。道助はその背中へ反抗的な劇《はげ》しい視線を投げた。
「あゝ君それからとみ子がね。いつぞやは大変失礼致しましたつて云つてたぜ。」と遠野はそのまゝ見返りもしないで云つた。
「案の通りやつて来たな。」と云ふ風に、道助は落ちついて微笑し初めた、がそれが、途中でふいと硬《こは》ばつてしまつた。彼女が傍につゝ伏して肩を震はせてゐるのだつた……
[#地から1字上げ](大正十一年十一月)
底本:「現代文学大系 64 現代名作集(二)」筑摩書房
1968(昭和43)年2月10日第1刷発行
初出:「東京朝日」
1922(大正11)年
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