青草
十一谷義三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)微《かすか》な

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#「毬」の「求」に代えて「鞠」のつくり、第4水準2−78−13、10下−5]
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     一

 杉兄弟は支配人の娘の歌津子とほとんど同じ一つの揺籃の中で育った。彼らが歌津子の母親の乳房を見て甘い微《かすか》な戦慄を覚えたこともある。歌津子が彼らの父の大きな手で真紅《まっか》な帽子を被《かぶ》せられて、誇らしさとよろこびに夢中になったこともある。それから、細い色糸が、彼ら三人の手から手へ、唄に合せて、幾度、美しい幻影を織ったことだろう。弟の手がそっとうしろから彼女の清い眉の上を蔽うたこともある。兄が胴を持って彼女のからだを色紙の風車を廻すように、日なたできりきりと振り廻したこともある。
 そうして、ある日、彼らの明るい淀《よど》みのない夢の世界に、決定的な出来事が起ったのであった。
 その日、弟が鬼にあたって、兄と彼女とが手を携《たずさ》えて遁《に》げた、弟は納屋《なや》の蔭に退いて、その板塀に凭《もた》れながら、蒼《あお》く澄んだ空へ抜けるほどの声で一から五十まで数を算《かぞ》え初めた。その間に小さな駈落者らは、大忙《おおいそ》ぎで裏庭の雑草を踏み越えて、そこに立っている無花果《いちじゅく》の樹に攀《よ》じ登った。
 五十が切れると鬼が納屋の蔭から駈けだしてきた。彼は微風に光り動いている雑草の上に眼をやって、しばらくぼんやりと立ちつくしていた。
 ふと青い無花果が飛んできて彼の足もとに落ちた。彼が見上げると、向うの樹の上からどっと歓声が起った。兄と彼女とが同じ枝に止って、真白な口ばたに無花果の実の汁をつけて、笑っているのだった。弟はその下へ駈けよった。
「おいで。無花果進上。」と兄が言った。
「そうよ。無花果進上。」と彼女も言った。
 弟は樹の幹に手をかけて振り仰いで、彼らを睨《にら》まえた。その時、弟は兄の頬に、何かが止っているのに気がついた。葉越しの太陽の光りが、彼らの白い皮膚の上に、もろもろとした斑点を写しているので見分けにくいが、じいっと眸《ひとみ》を凝《こ》らすと、大きな蜘蛛《くも》が、脚をいっぱいに伸して、奇怪な文身《いれずみ》か何かのように、兄の頬にへばりついてるではないか。弟は二三歩あとへよって、無言のまま蒼くなって兄の顔を指した。
「あら、あら、あら」そう叫びながら、彼女は樹の幹に震えついた。異常な神経家の蜘蛛はただならぬ雰囲気を感じたのだろう。兄の頬から細い首筋の方へ動き初めた。兄が何気なくそこへ手をやると、蜘蛛は今度はその手の甲の上に蟠《わだか》まって、腹を動かした。兄は忙《あわ》ててもう一方の手でそれを払った。そうしてその瞬間に彼のからだは中心を失って地上に落ちた。
 彼女と弟とは固くなって眸《ひとみ》を見張った。兄は俯伏《うつぶ》せに横わったまま片方の眼を押えてしくしく泣いていた。その指の叉《また》から濃い血が滲《にじ》みでてくる。そして、彼の頭の上の空間には、脚を縮めた醜い蜘蛛のからだが、上の樹の枝の揺れにつれてもぞもぞと動いているのだ。
 きゅうに彼女が、樹の上で破《わ》れるように泣きだした。弟もぼろぼろと涙を流した。そして主屋《おもや》の方へ一散に駈けながら、遠くの彼女と声を合せて泣いていった。

 兄の左の眼はその時以来ずっと黒眼鏡で蔽われている。

     二

 蜻蛉《とんぼ》釣りに蜻蛉の行衛《ゆくえ》をもとめたり、紙鳶《たこ》上げに紙鳶のありかを探したりする煩《わずらわ》しさに兄は耐えられなくなってしまった。そうして雑草を踏みしだいて駈け廻ったり、ゴム※[#「毬」の「求」に代えて「鞠」のつくり、第4水準2−78−13、10下−5]《まり》をはるばると投げ上げたりする輝かしい遊びからも彼はすっかり遠ざかってしまった。彼は肥って色が白かった、それが黒眼鏡を掛けだしてから、いっそう静な清浄な感じのする子供になった。彼を憫《いとお》しむ言葉が、弟らの前で、しばしば周囲の人々の口に上った。歌津子がこまごまとした毛糸細工を贈ったり、小さな南京玉の飾りを兄の胸へつけてやったりすることもたびたびあった。
 弟は勝気な健康な子供であった。それが、いつの間にか何かしら憂鬱《ゆううつ》を感じるようになった。
 ある晩、村の社《やしろ》の祭礼で、兄を真中に、歌津子と弟とが両側に並んでお参りをした。帰りは、紙鉄砲や折紙細工の批評や、焔の上に手を翳《かざ》して平気でいた魔術師の噂さなどで、彼らはそれぞれ興奮していた。
 人通りの少いところへ来ると、兄は先きにたってピイピイと口笛を鳴らした。弟は大声で軍歌を唄った。歌津子は空を仰いだり彼らの歌に耳をすまして微笑《ほほえ》んだり、今買った京人形を愛《いとお》しんだりして歩いていた。
 しばらくゆくと、彼女がふいと兄のからだに抱きついて彼を引き戻した。闇《くら》がりから大きな馬の顔が現れた。
「ちっとも見えないんだ。」と兄が言った。彼女はしっかりと兄の手を握って息を喘《はず》ませた。
 それを見ると弟はきゅうに口を緘《つぐ》んで、彼女を放っておいてどんどん先へいった。弟の胸の中に不満と淋しさが膨《ふく》れ上っていたのだ。
 その夜、床にはいってから、弟は夜着の中でいつまでも眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、11上−10]《みは》っていた。そして彼は、隣りに眠っている兄の穏かな寝息きを聞くと、こっそり起き上って、枕もとの兄の黒眼鏡を持って縁側に出た。そして、廁《かわや》の側の雨戸を開けて、星の輝いてる空に向って、力限り抛《ほう》り上げた。それから床に戻って、いつか教会で聞いた神様の名を幾度も口の中で繰り返えした。いつの間にか涙が眼にいっぱいに溢れた。そうして瞼《まぶた》を合せると、自分が歌津子と肩を組みながら、兄が馬に喰われているのを眺めている夢を見た。
 中学校へ通うようになると兄はいっそう無口になった。兄の穿《は》く靴を弟は嘆美に似た心持ちで眺めた。それから、兄がリーダの復習をしているのを傍で聞いていると、きゅうに、兄が、どんなに踏み台をしても届かないようなところへ昇天してしまったような気がするのだった。
 ある日、弟は兄の友人からこんなことを聞いた。その日、兄の組は体操の時間に高い梁木の上を渡らされた。兄は、教師の止めるのを聞かないで、皆と同じように渡ろうとした。そうして、半ばまで来ると、不意によろめいて、くくり猿のように梁木にしがみついた。いったい、片方の眼を失った彼が、直線の上を真直《まっすぐ》に歩こうとするのがむりなのだ。兄はそこから吊さがっている長い棒を伝っていったん下へ降りてきた。教師は苦笑しながら、それみろと言った。
 皆が渡りきると、兄はも一度片方の梯子《はしご》を登り初めた。教師は赧《あか》くなって兄を叱った。兄は微笑しながら、だいじょうぶですと言った。そして登っていった。
 三分の一ほど行くと、彼はまた重心を失って、危く腹這《はらば》いになった。下から仰ぎ見ている教師も生徒も愕然《がくぜん》として顔色を変えた。「下りろ、下りろ。」と教師が甲高《かんだか》に言った。兄はそれにはかまわずにも一度梁木の上に立ち上った。そして今度は五寸ぐらいずつ小刻みに丹念に歩いていった。下の人たちは笑いながら蒼くなってそれを看守《みまも》った。
 兄が渡りきって下りてくると、教師が「ばか」と言った。そして兄は残りの時間じゅう、梁木の下に立たされたのだという。
 兄は一言もそれを家の者に話さなかった。弟は兄にある懼《おそ》れをさえ抱き初めた。

 弟は歌津子といっしょに小学校に通っていた。雨の日は同じ傘で帰ったり、お天気には月見草や手鎖りや草笛に誘われていっしょに道草を食ったり、それからもちろん意地の悪い友だちの冷評と楽書きの的となったりしつつ彼らは毎日愉快であった。
 彼女も兄に対してはもうある距離を感じていた。そうして学校から帰ってきて、復習をしてもらうために、弟とともに兄の机の前に坐る時にも、ともすると救いを求めるように弟の方へ微笑《ほほえ》みかけて、兄に向っては、以前ほどはっきりと口を利《き》かなくなってしまった。

     三

 杉家は酒の醸造《じょうぞう》を業としていた。住居《すまい》から五町ほどいった浜辺に酒倉がある。小学校を出ると、弟は、父の意志で、それへ毎日やらされることとなった。彼はそこで新しい酒樽の木の香を嗅いだり、褌《ふんどし》一つで、火の入った酒の焚《た》き出しを手伝ったりした。彼の肉体にはぐんぐん力がはいってきた。そして真白なその肌は、そこに働いている男たちの評判になった。
 歌津子は県立の女学校へ通っていた。学校でやった縫物を持ってきたり、リーダを抱えて兄の部屋へはいってゆくことがたびたびあった。弟は時おり彼らの会話に耳をすました。それから探るように彼女の眼を見た。彼女の物を言う時の口つきとか柔かい膨《ふく》らみを示した手とか、彼女から発するあらゆる微細な表情がいちいち彼を懼《おそ》れしめるようになった。彼はこっそりと教会へ通った。
 ある夏の夕方、三人はテンマに乗って海へ出た。弟が櫂《かい》を握っていた。兄と彼女とが並んで彼の方を向いて掛けていた。艪臍《ろべそ》の鳴る音と胴が波を噛む音とに遮《さえぎ》られて、彼らの会話は弟の耳へは達しなかった。しかし弟は、白暮の冷い光りの中に浮びでている二つの顔に、じいっと神経をたてた。
 あたりに舟は一艘もいなかった。弟は裸になった。
「どこまで出るの?」と彼女が訊《き》いた。それには答えないで、弟は力限り漕《こ》いだ。彼の肩から二の腕へかけて真白な肉瘤が盛り上りその上に汗がいちめんに滲《にじ》んでいた。舟は彼のからだとともに劇《はげ》しく揺れ、空には星が輝き、そうして彼らは涯《はて》しのない淋しさの中へ出ていった。
 彼女は片手を兄の膝《ひざ》に載《の》せ、片手でしっかりと舟縁《ふなべ》りを掴んでいた。風に乱された彼女の髪が、兄の没表情な頬の上に散りかかってゆく。
「いやだ、いやだ。」そう言って彼女は身を震わせた。
「寂しいの。ばかだなあ。」そして兄は微笑んだ。
 弟は艪を止めて舟を流した。彼の大きな胸は彼らの方に向いて緩《ゆる》く波打っていた。
「疲れたろう。」と兄が言った。
「なあに。いけるところまでいくとおもしろいんだ。」
「そうだね。」
 もうすっかり闇《くら》くなっていた。近くの海面からイナの跳《は》ねる音がひびいてきた。そして水の中を白坊主のような水母《くらげ》がいくつも浮いて通った。彼女はあたりを見廻した。
「もし舟が覆《かえ》ったらどうしようかしら。」
 それを聞くと弟は大声で笑った。それから彼は言った。
「舟を漕ぎながら、ふいと気が違ってしまうと愉快だと思うがな。」
 今度は兄が声高《こわだか》に笑った。
「結局どうなるんだろう。」
「誰が?」
「誰って?」
「結局死ぬんさ。」
「結局死ぬんだろうなあ。」
「死ぬからつまらないさ。」
 そう言って兄は空を仰ぎ見た。そして彼女を顧《かえり》みた。
「見える?」
「なあに?」
「星さ。」
「あんなに光ってる。」
「闇《くら》いね。北斗星はどこ?」
 彼女は手を挙げた。兄は黒眼鏡のかかった顔をひたりとそれに寄せた。
 弟は櫂《かい》を握って立ち上った。舟ががぶりと揺れた。
「寒い、わたし。」そして彼女は坐りなおした。弟は彼女の膝へ彼の浴衣《ゆかた》を放り掛けた。それからまた沖へ漕ぎ初めた。彼女は劇《はげ》しくかぶりを振った。
「もう帰るんだ。」と兄が命令するように言った。弟は聞かずに漕いだ。舟は気違いのように暴れ進む。彼女は真蒼になって兄に抱きついた。兄はじっと弟を見据《みす》えて唇を噛んだ。
 弟は眼の前の空を見た。空の星が自分の汗の中へ溶けこんでくるほどの快さであっ
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